平成19年4月18日(水)
生理不順で来院される患者さんは多いが、ほとんどの場合治療の必要はなく経過観察で問題ない。それでも時にはうつ病またはうつ状態のために排卵がなくなっている人もいる。
先日もそういう患者さんが来られたのだが、聞いてみると近くの(産婦人科ではない)クリニックを受診していて数ヶ月前から薬をもらっているとのこと。クリニックの医師はうつ病ではないと説明しているそうだが、抗うつ剤が処方されており、自覚症状がいっこうに良くならずつらそうである。
ひと目でうつ病もしくはうつ状態だと判断して、すぐに信頼できる精神科に紹介したところ、「重症のうつ病で、現在処方されている薬は効果がないようなので薬を変えて治療してみます」とのことであった。それまで治療していたのは精神科が専門ではないクリニックであったが、処方されていた薬の副作用で乳汁分泌も起こっておりそのフォローもしていなかった。
私の同期のY先生は、10年間産婦人科の修練をして非常に優秀であったが、思うところがあって産婦人科をやめて内科に変わった。そして新たに内科の研修医から始めて約10年修練して「内科医院」を開業した。「産婦人科」の看板を同時に出しても何ら問題ない、むしろ産婦人科医としての技術を使わないのはもったいないと思うのに。彼にとってはあれもこれもなどとは考えられないことだったのだろう。
どの分野もそれぞれ深いものがあるので、自分がきちんとやったという自信のない分野には手を出さず、それぞれの専門家に任せるのが患者さんのためになると思う。特に精神科はセンスがなければ難しい分野だと思うので、医師だからといって何でも治療すればいいというものではないだろう。自分も含め医師はもっと自分の専門を大切にすべきである。それがひいては他の専門分野を尊重することであり、患者さんのためになるのだから。
カテゴリー 日誌
医師の責任
フレンチパラドックス
平成19年4月14日(土)
フランス人は食いしん坊が多く、他の先進国と比べて破格に多くの塩分と脂肪、アルコールを摂取しているにもかかわらず成人病の罹患率が低いそうである。しかも喫煙率も高いという。従来の考え方からいえば通説と反対のために、世界中の学者が説明に苦慮して「フレンチパラドックス」という言葉が生まれ、赤ワインが健康に良いという説もここから出たそうである。
確かに「健康」という概念からは、美味しいものもアルコールも刺激的な生活も排除されるべきものであろう。でもそうなれば生きているだけということになって、なんのテイストもない人生ということになってしまう。「健康」という概念と、実際の健康とは別のものである。やはり美味しいものを食べ、面白いこと、楽しいことをしたほうがいいに決まっている。健康はすばらしいことだが「健康」という概念からは離れた方がいい。
広島県が1位!
平成19年4月10日(火)
暖かい日が続く。日曜日には近くの比治山へ行ってみたら桜が散り始めていて風情があった。やはり桜は散る時がいい。桜吹雪の中で飲むビールは格別である。
この10年間の妊産婦死亡率の最も低い県は、なんと!広島県である。出生10万件あたり1,84人(全国平均6,39人)で最も多い京都府(10,70人)に比べて6分の1である。これは周産期死亡率も全国一低いことと合わせて誇るべきことである。広島県の産科が我が国で最もうまく機能していることを表していて、産科に関わる医師・スタッフにとって実にうれしい結果である。この成果をさかなに飲むビールはいっそう美味しく感じられる。
頭の固い看護協会
平成19年4月4日(水)
看護協会の会長が全国の協会支部に、「助産師以外は内診をしてはならない」との通達をあらためて出したそうである。保助看法に基づいた通達だと思うが、全国でお産がどうなるかわからない時になんという視野の狭い、かたくなな姿勢であろうか。医師が責任をもって指導している看護師の内診・介助は戦後60年にわたって行われてきており、安全性に問題がないことは明らかになっている。米国では病院でのお産はほぼすべて産科専門の看護師が内診・介助しており、わが国と同様うまくいっている。さらに、医師法という上位の法律では看護師の内診はなんら問題ないのに、である。
看護師と助産師の地位向上をはかるためとしか思えないこのやり方は、ナイチンゲールの精神から遠く離れた我執としか思えないことである。彼女達は目の前に苦しんでいる患者さんがいても、「私の仕事はここまでです」と言って自分達で決めた看護の仕事以外は何もしないのであろうか。そうではあるまい。やはりどうしたら患者さんのためになるのかと考え、そのためなら何でもできることはしようとするのではないだろうか。私が今まで接してきた看護師さんたちは皆、患者さんのために一生懸命頑張っていて、こんなややこしいことをいう人はいなかった。
看護協会のえらい人たちは感覚が違うのだろうか。現状を見ていると、自分達の権利のみ主張して戦後60年営々と築きあげてきたお産のシステムをぶち壊そうとしているとしか思えない。困るのはお産をする患者さんなのである。
何のための健康診断
平成19年3月31日(土)
先日も当院にかかっている患者さんが、健康診断で尿の潜血反応が陽性だったので医療機関を受診するようにいわれたと来院された。健康診断が行われたのはなんと!去年の11月である。いったい何のための健康診断なのだろうか。法律で健康診断を義務付けているために、各企業は仕方なしに行っているわけだが、健康診断そのものが無意味であるとわかった以上法律を変えてやめるべきである。なるほどドックも含め健康診断そのものを始めた頃は有用だと思っていたし、それはそれでよかったかもしれないが、有用性が否定されたのだからやめるべきである。なにより対象となる人が気の毒である。何の役にも立たないことを義務として検査され、異常が見つかったからといわれて医療機関を受診する。それも何ヶ月もたってからである。急を要する疾患なら遅すぎるし、そうでなければ治っているかそもそも受診する必要のない指摘が多い。二重の意味でむだな負担を強いられている。
何度でも言うが、症状もないのにこれらの検査をするのは百害あって一理もないのである。早期発見すればなんでも良くなると思っているかもしれないが、治るものは治るし治らないものは治らないのである。こんなことを言っては身も蓋もないが医師の役目は「癒し」であり意味のない検査や治療と称して苦痛を与えることではないはずだ。
「はる」
平成19年3月28日(水)
暖かい日が続く。桜も咲き始め、今週末は満開となることだろう。例年ならもう一度寒くなるのだが今年はこのまま春爛漫となるに違いない。春といえば田舎のレンゲ畑に寝ころんで空を見上げていた頃を思い出す。暖かさと草の香り、空の青さで思わず眠ってしまいそうだった。谷川俊太郎の「はる」はその時の情景にまさにぴったりの詩であった。
「はなをこえて/しろいくもが/くもをこえて/ふかいそらが/はなをこえ/くもをこえ/そらをこえ/わたしはいつまでものぼってゆける/はるのひととき/わたしはかみさまと/しずかなはなしをした」
遠視
平成19年3月24日(土)
今から10年近く前開業した頃、視力は良かったのだがストレスのせいだろうか、近いところが少し見えにくく感じることがあった。「老眼?」と愕然としたがそのうち元どおり見えるようになって今に至っている。その間、同期の連中とたまに話をすると結構老眼になっているのがいて自分はまだまだ大丈夫だとひそかに優越感にひたっていた。
60歳で現役日航機のパイロットの小林宏之さんによると、毎日遠くを3秒、近くを3秒交互に見る訓練を5分以上続ければ、一旦見えなくなっていた近くのものが見えるようになるという。なるほど遠視は遠近を調節する眼の筋肉の老化によるものだから鍛えればよいわけだ。自分もいつまで近くの細かいものがみえるのかわからないが、もし見えにくくなったらぜひこの訓練をやってみようと思う。
広島県の産科医療
平成19年3月19日(月)
中国新聞で「いいお産(考)」と題してお産がどうなっていくのかを考える記事をシリーズで特集している。タイムリーな企画だと思う。現在のお産の状況と、産科医が減っている現実、将来の展望などかなりきめ細かく調べて記事にしている。
最近広島県では福山市民病院の産科が閉鎖された。福山市とその周辺の産科救急患者は倉敷か岡山、場合によっては呉か広島に移送されることになる。もっとも国立福山病院が救急受け入れの準備をしているので、そうなれば大丈夫であるが。もっと困るのは備北地区である。この広大なエリアには産科救急を受け入れるのは三次中央病院しかない。産科の救急はまさに時間との戦いであり、近くに救急受け入れの施設があるかどうかの違いは大きい。これほど産科の救急受け入れ施設がなくなった原因は産科医の不足であり、産科医不足の原因はその労働条件の過酷さにある。産科は医療の中で唯一「赤ちゃんの誕生」という、病気とは対極にある生命の躍動に携わる科である。非常にやりがいがあるが、なにしろ人が少ないので寝るヒマがない。結果で判断されるからいくら適切な医療をしていても、何かあれば結果責任を問われる。報酬は他科と変わらない。これでは産科医療にかかわる医師がいなくなるのもうなづける。まずやることは、病院勤務の産科医の報酬を上げることだと思うのだが。
岩田健太郎著「悪魔の味方」に思う
平成19年3月12日(月)
以前「米国医療の現場から」というタイトルでアメリカの病院からブログを発信していた岩田健太郎医師が帰国し、その内容をまとめた著書を著した。「悪魔の味方」というひねった題名の本であるが、さすがにロンドン、中国、アメリカ(ここが最も長い)で働いた経験に基づいて書いており、なかなか興味深かった。
その中で何度も強調していることは、日本はなんでもアメリカと比較しすぎるということであった。アメリカで認められることは世界で認められることと同義と思っている人が多いのでは、と看破している。ヨーロッパをはじめ他の国々はアメリカを含め他国をもっと冷静に見ており、なんでもアメリカがいいとは思っていない。特に医学の世界ではそれが顕著であるという。さらに、著者は日本の医療は総合的に見て世界の中でかなり良いと経験に基づいて述べている。
思うに、日本は孤立した島国のせいなのか、昔からどうしても力のある国々に認めてもらいたいという意識が強く、昔は中国一辺倒であり、今はアメリカがすべてになっているのではないか。イラク問題にしてももっと冷静に対処すべきで、アメリカの忠犬ハチ公になってどうするのだろう。そういえばヤンキースの松井選手やマリナーズのイチロー選手、今年入団した松坂選手などのアメリカでの動向が逐一伝えられるのも同じ心理的構造の所以だろう。
かつて日本の医師は「カルテ」にドイツ語の単語を書き連ね、病名はドイツ語で言い交わすことがアカデミックと考えた。今は英語がドイツ語に置き換わっただけで構造は同じである。明治以前は漢方が隆盛を極めていた。つまりいつも自国の言葉をそのまま使って「カルテ」を書いていないのである。それらの言葉を知らない一般の人には医師の言葉が何か高度なことを行っているように見えるからだろう。たいしたことがないものほど権威をつけたがる。欧米の医師は自国の言葉でわかりやすく「カルテ」を書いているというのに、わが国はそれではありがたみが少ないかのように横文字を使う。
これらの他国に対する孤立感、劣等意識をなくするのは難しいことだと思うが、もしモンゴル帝国、ローマ帝国、大英帝国、などのように我が国が他国と覇を競い勝ったことがあればもっと自信を持てたのではないだろうか。正邪はどうであれ勝つことは必要である。
なつかしい歌
平成19年3月7日(水)
小さい頃に聞いた歌や音楽は記憶にしっかり刻み込まれているようで、いつ聞いても妙になつかしく感じる。小学校時代に聞いた記憶のある「文部省唱歌」はとくに郷愁を誘う。
「蛍の光」「夕焼け小焼け」「われは海の子」「箱根八里」「荒城の月」「叱られて」他にもたくさんあるが、もしこれらの曲を今始めて聞いたらどうだろう。はたして今ほど感動するだろうか。もちろんいい曲は、国境を越え時代を越えて人を感動させるが、やはり小さい頃に習った時の思い出がこれらの曲の味付けになっていることは否めないだろう。NHKでこれらの曲のコンサートを放送することがあるが、つい見入ってしまう。映された会場を見れば観客はほとんど同年代かそれ以上ばかりで、やはり小さいときの刷り込みは大きいと思う。