令和5年4月27日
表題は京都大学医微生物研究所の宮沢孝幸准教授の最新の著作である。「京大おどろきのウイルス学講義」「ウイルス学者の責任」に次ぐ第3冊目のPHP新書で、これまでの氏の学者として生きてきた軌跡をなぞりながらウイルスとはどういうものかを丁寧に述べている。難しい部分も多いが全体でみると「ウイルスと生物との関係」が少しずつ理解できて面白く読ませてもらった。本物の学者はすごいなと感心させられたのもうれしいことであった。ウイルスはなぜ存在するのか、生物はなぜ生まれたのかという根源的な疑問を考えさせられる。ウイルスを作ることはできるが排除することは難しいことが理解できる。
武漢ウイルスが広がり始めたころから、氏は「これを防ぐことはできないし日本人にとってはそんなに恐ろしいウイルスではない」と述べていた。また、「新型ワクチンは危険だから使うべきではない」とも述べていた。その言葉通りワクチンを打っていなかった2,020年は超過死亡がマイナスだったのに、ワクチンを打ち始めた2,021年から超過死亡が増えてきて2,022年には信じられない超過死亡になっている。そのことについては厚労省は知らんふりをしているし、マスコミも何も言わない。あれだけコロナが怖いと煽りまくり、ワクチンを打たないのは罪だと言わんばかりに打たせまくり、人々の行動制限や無駄なマスクをさせまくった責任をだれも取ろうとしない。氏の著書ではそのことに一切触れていないが、行間から強い怒りが読み取れる。氏はウイルス学者として人々のために適切なことを言ってきたけれど、声の大きい人たちやマスコミ、委員会などの前では正しいことが通らず結果的に多くの人が犠牲になったことに対する深い悔しさが感じられる。
太平洋戦争に突入した時も、一部の知識人や一部の軍人は「戦争はすべきでない」と訴えていたけれどマスコミをはじめ声の大きい多くの人に押し切られて多大な犠牲を払った。同じ図式である。この国は変わらない。
カテゴリー 本
「なぜ私たちは存在するのか」
「ウイルス学者の絶望」
令和5年2月24日
表題は京都大学の准教授でウイルスの専門家、宮沢孝幸氏の著書である。ジャーナリスト鳥集徹氏との共著「コロナワクチン失敗の本質」に次ぐ宮沢氏渾身の作品である。帯には「私の35年にわたるウイルス学、免疫学、分子生物学、ウイルス共進化学を研究してきた経験に基づいて、学者として信念をもって執筆しました」とあり、本当に日本のことを考えて、「今までの新型コロナ対策は間違っていますよ、負のスパイラルに落ちてしまっていますよ」とわかりやすく一般人向けに講義している。氏は正しい知識をマスコミにも政治家にも発信を続けてきたが、声の大きい御用学者や不安をあおるマスコミには歯が立たず、表題の「ウイルス学者の絶望」になったわけである。
新型コロナが日本で発生した時も、すぐに収まるだろうと考えていたが、海外の状態に煽られて正しく対処してこなかったことを歯がゆく思っている。まともなウイルス学者なら新型コロナに対しては氏のように考えるのだろうが、誰も発信せずあっという間に間違った方向へと行ってしまった。この3年間の損失は甚大である。どうしてこうなってしまうのだろうか。
「京味物語」
令和5年2月10日
表題はノンフィクション作家、野地秩嘉(のじ・つねよし)氏の著作で東京、新橋にあった名店「京味」の一生を綴った作品である。「京味」は漫画「美味しんぼ」で知って一度は行ってみたいと思っていたが、残念ながら機会がなかったけれど、この作品で店を身近に感じることができた。
店主の西健一郎は京都・木屋町で割烹をやっていた西音松の四男に生まれた。音松は西園寺公望のお抱え料理人で、当時の調理師番付で西の横綱になるほどの腕をもっていた。健一郎は高校一年生の正月明けに父親の音松から京都の料理屋に修業に行くように命じられる。1,954年、17歳、厳しい修業が始まった。先輩からのいじめも激しかったがじっと耐えて頑張った。10年以上続いた料理人はいないほど厳しい店だったが、健一郎はそれに耐え「真」といわれる板前になった。自分の店を持ちたいと考えて準備したが、親方から妨害され東京で独立することにした。30歳の時であった。それからはその腕と家族全員でサービスする姿勢、客が客を呼び東京の名店になったのである。
2,019年の5月にも著者は京味で食事している。その際、西は「90まで頑張って料理を作る」といっていたのに8月に訃報を知って驚いている。著者をして「日本料理の最高峰」と言わしめた「京味」は2,020年店を閉めた。
阿川佐和子氏の「過ぎてようやく気づく。京味は、味だけでなく、店の佇まい、気遣い、動き、会話、香り、リズム、気配…、すべてが日本の文化そのものだった。」との帯の言葉がある。
梶山季之氏再び
令和5年1月27日
大下英治著「最後の無頼派作家 梶山季之」を偶然本屋で見つけ、かつて梶山氏の著作は結構読んでいたので懐かしくなり購入した。
梶山季之氏は1,930年に日本統治下の朝鮮・京城で生まれ敗戦後父親の故郷、広島地御前で育つ。広島高等師範学校時代に同人誌「天邪鬼」を発刊、後の美那江夫人と知り合う。肺に空洞があり(結核)上京しても定職につけなかったが、後を追って上京した美那江と結婚、喫茶店を経営しながら同人誌「新思潮」に参加して小説を書くようになる。
1,958年にフリーライターになり世紀の大スクープと呼ばれた「皇太子妃に正田美智子」をスクープしてトップ屋と呼ばれた。その後小説に専念して「黒の試走車」「赤いダイヤ」「李朝残影」など膨大な作品を書いたが激務とアルコールのために1,975年取材先の香港で客死した。肝硬変による食道静脈瘤破裂だった。
綿密な取材と体験をもとに小説の形で告発した作品も多く、「事実は小説よりも奇なり」のことわざを納得させられた。全著作は326冊、死後59点の文庫本が出版され1000万部以上売れたという。
美那江夫人は2,016年86歳で死去、世話していたクラブ「魔里」の大久保まり子は2012年「魔里」50周年を祝う会を盛大に行い、2020年12月まで店を開いていたが2021年1月死去した。梶山季之氏は風雲児のような人だったと思う。
「そばの旅」
令和4年8月26日
表題はそば職人の高橋邦弘氏の著書で、氏のそばを広めてきた軌跡が描かれている。サラリーマンだった氏がそばの魅力に取りつかれ、そば職人・片倉氏のもとで修業して自分の店「翁」を東京・目白に開いて繁盛していたが、自家栽培・製粉にこだわって山梨県に店を移し人気を博し、「そば会」も頼まれればどこにでも行ってそばを打った。
広島・豊平の町長に請われて山梨の店を弟子に譲って豊平に「雪花山房」を作り土日のみ開店、他県からも多くの人が来店した。実はこのときに私も行くようになってそのおいしさにとりつかれ何回いったことだろうか、いつもメニューは「ざるそば」しかなかったが背筋が伸びるような絶妙のそばとそばつゆだった。平日は全国各地にそばの普及、「そば会」の開催、クルーズ船飛鳥でのそば打ち、洞爺湖サミットでのそば打ち、スペイン・イギリスでのそば打ちなど世界規模の活躍をしている。たくさんの弟子を育てていて、そのおかげで広島のそばのレベルが向上したし、豊平のそばも有名になった。
その後大分の豊後高田市長に請われて移住し、杵築「達磨」を開店しているがここは会員制・予約制で週末と祝日、連休のみ開いている。会員でなくてもそばがあれば出して、気に入ってもらえれば会員になってもらうという。それにしても「そば」でこれだけのことを成し遂げたのは素晴らしいことで、まさに現代の名工・国民栄誉賞にふさわしい人ではないだろうか。
追悼
令和4年8月19日
「患者よ、がんと闘うな」で一世を風靡した医師、近藤誠氏が虚血性心疾患で通勤中のタクシーの中で亡くなられた。当時感じていたがんの治療についての疑問がこの本によって氷解し、同時にがんの本質もぼんやりとではあるが見えてきたように思えた。以来、氏の動向に注意を払っていたが、現代の医療体制の中での氏の発言は総スカンを食らい、亡くなられた今でも好意的な発言は少ない。
氏の著書や発言を追っていると、すべては患者さんのためにとの思いが伝わってくる。慶応大学医学部を首席で卒業し放射線科を専攻、講師になったのも一番早く、海外の論文も読み込んで少しでも良くなる方法を取り入れていた。乳がんの治療についても拡大手術が主流だった日本を縮小手術に導いた。「成人病の真実」では、老化による変化はどうすることもできない、検査や治療は寿命を延ばせないことを海外のデータをもとに解説した。症状がなければ検査は不要で、薬も本当に必要かを十分考えたうえで使うべきだと説いた。
氏は医学界からは孤立したがその後も同じことを著書を通じて一般に広めていった。患者さんのためになるならそれでもいい、との覚悟のもとに一貫してぶれずに生きられた。その意志の強さ・勇気に尊敬の念を禁じ得ない。どうか安らかにお眠りください。 合掌
「リセット発想術」
令和4年8月12日
表題は「くまモン」の生みの親でもある放送作家・脚本家の小山薫堂氏の著作である。元は中学生に読ませるための発想術の本として綴ったもので、タイトルは「じぶんリセットーつまらない大人にならないために」である。氏はBSで「東京会議」という番組をやっていて、いつも既存の考えにとらわれない発想で新しいこと、同じことでも発想を変えて取り組んでみるなど、その自由な考え方にいつも感心している。
氏の考え方の根底には「相手が喜んでくれるようにする」があり、これは小学生のころから変わらないようである。それがいろんなことを進める原動力になっていて、「料理の鉄人」「世界遺産」映画「おくりびと」を作ったり、京都下鴨茶寮主人、京都芸術大学副学長など八面六臂の活躍をしている。2,025年の大阪万博ではテーマ事業プロデューサーを務めるという。
本書は氏がどのような考え方で物事に対処してきたのか、行き詰まり満杯になったら怖じ気ないで考え方をリセットしてきたかを説いている。自分が中学生に戻ったような気持ちで読むといっそう面白く感じられ、さすがだと思う。
「私」という男の生涯
令和4年7月15日
表題は今年2月に亡くなった石原慎太郎氏の著書で、本人と夫人の死後に出版するように決めていたという。内容は生い立ちから両親のこと、弟裕次郎氏との関わり合い、思春期から大学時代、芥川賞受賞のいきさつ、結婚のこと、世に出てからの様々なこと、恋愛のことも包み隠さず(?)書いている。だから夫人が亡くなった後に出版することにしていたのだろう。それにしても作家、国会議員、東京都知事など実にパワフルな人生を歩んだスケールの大きい人物が晩年、その胸の内を置手紙のようにさらけ出している著書は実に興味深く、同じことを何度も繰り返している部分はあるが、面白かった。
石原氏の著書は高校時代から注目していて、特にヨットで太平洋を横断するレースを描いた「星と舵」は、大学に入ってすぐにヨット部に入る動機になった、尤もすぐに退部したが。長編小説「亀裂」も好きで思い出したころに読み返して今も手元に置いている。平凡パンチに連載していた「野蛮人のネクタイ」も当時の若者の風俗の先端を描いて面白く、野坂昭如氏や三島由紀夫氏との対談集なども含めて氏の著書はほとんど読んでいると思う。氏ほど日本を愛し公平無私に国のためになることをした人はなかなかいないだろう。文学で、行動で我々を楽しませてくれた氏に感謝である。 合掌
「森のうた」
令和4年6月23日
表題はN響の指揮者で2,006年に逝去された岩城宏之氏の著書で、復刻版として今年発刊された。氏は東京芸大に現役入学し、一浪して一学年遅れて入学した山本直純氏と肝胆相照らす仲となり、指揮者になることを目指して頑張った青春記である。あまりにも面白かったので紹介することにした。
「青春記」はどれも面白いもので、自分のその頃の記憶と相まって興味深く読めるものだ。畑正憲「ムツゴロウの青春記」南木佳士「医学生」小松左京「やぶれかぶれ青春記」北杜夫「どくとるマンボウ青春記」久坂部羊「ブラックジャックは遠かった 阪大医学生ふらふら青春記」など数え上げればきりがないが、いずれも実に面白い。
表題の「森のうた」は芸大の打楽器科に入った岩城氏と作曲科の山本氏が、指揮がしたい一念で切磋琢磨しながら夢をかなえていき、とうとうショスタコービッチのこの曲を指揮するに至るところまでを描いている。語り口もよく、よくぞ復刻版を出してくれたものだと思う。
「副作用死ゼロの真実」
令和4年6月9日
表題は近藤誠医師の最新著書である。出版日付は2022年6月17日、まだ書店には出てないと思うが、ネットで手に入れることができた。内容は①ワクチン「副作用死」が一人もいない本当の理由②誰も教えてくれなかったワクチン接種の不都合な真実③すでに答がでているコロナ新薬の効果と限界④ここまでわかった感染する人、しない人の違い⑤過去からみえてくる変異の実態とウイルスの未来⑥世界の常識からかけ離れた間違いだらけのコロナ予防策⑦インフルエンザの教訓から学ぶコロナ禍との正しい向き合い方、からなり、終章として「僕はこの2年半、何を考え、どうしてきたのか」を忌憚なく述べている。
世界を相手に真実を追求し、論文を精査し納得できる理論を組み立て、人々に有用でない、むしろ害となる医療を受けないように警鐘を鳴らし続けている氏の著書は「患者よ、がんと闘うな」以来、その語り口のよさと相まって納得することばかりである。こういう人がいてくれるので「人間もまだまだ捨てたものではない」と思う次第である。