令和7年10月24日
日中は暖かい(暑い)が朝夕は肌寒い日々が続く。11月になったら暖房が必要になるかもしれない。暑い夏が長く続き、秋を味わう暇もなく冬に突入するようで、まことに味気ない季節の移り変わりである。以前は「天高く馬肥ゆる秋」「秋深き隣は何をする人ぞ」「豊穣の秋」など季節を礼賛するブログを書いていたのだが、そんな気持ちになれない。困ったものだ。自分は農家出身なので、小さい頃から畑仕事や田植え、稲刈りなど手伝いをいつもやらされていた。中学時代も稲刈りを手伝っていたが、さすがに高校時代はしなくて済むようになった。でも今から思えば良い経験だった。自分が刈り取った稲を干して、籾にし、玄米にして白米にする過程を経験することは、もう二度とできないことだろう。裏山に入れば自然そのもので、かつてはマツタケもとれたし山の畑にはサツマイモや落花生、ジャガイモなどを植えていた。家の裏の畑にはネギ、エンドウ豆、トウモロコシ、トマト、キュウリ、ナス、夏はスイカなどを収穫していたが、これらはすべて自分たち家族が食べるためなので小さな畑で充分なのである。
鶏の卵は取れたてだし、鶏肉もいつでもある。牛乳は近くの農家から買って(卵との物々交換?)毎日飲んでいた。今から思えば贅沢な日々だった。そして秋の日々を満喫していたように思う。
短い秋
西田俊英「不死鳥」展
令和7年10月17日
新見(にいみ)美術館で開かれている開館35周年特別展に行ったが、その絵のすばらしさ、凄さに言葉もないほどだった。西田俊英氏は現代日本画壇を牽引する名前通りの俊英で、2,000年には広島市立大学芸術学部の教授を務めながら、数々の作品を発表している。2,012年からは武蔵野美術大学の教授を務めている。
今回の作品は、西田氏が屋久島に1年間移り住んで取材し、人間と自然の共生、生命の循環をテーマにした巨大日本画「不死鳥」を制作している途中までの成果を、ひと続きの絵の中で表している。完成すれば縦2.5メートル、長さは100メートルになる大作である。全部で六章からなる壮大な絵巻物で、今回の展示は第一章「生命の根源」第二章「太古からの森」第三章「森の慟哭」までであるが、心を鷲摑みされるような凄さに圧倒された。新見美術館は岡山県の西北部、小さな美術館なので、ありがたいことに観客も少なくじっくり鑑賞することができた。六章すべてが完成したらおそらく東京の美術館に展示されるだろうが、多数の人が押し寄せると思われる。今が絶好のチャンスである。ぜひ行ってほしい。
「アンクルトリス交遊録」
令和7年10月10日
表題は寿屋(現サントリーHD)の広告デザイナーで作家、柳原良平氏の著作である。1,976年初版で今回の文庫本はその復刻版である。半世紀以上前にはテレビコマーシャルで「赤玉ポートワイン」「トリスウイスキー」のアニメが流され、小学生だった自分はそれを見るたびに「飲んでみたい、きっとうまいんだろうな」と思っていた。あの独特なタッチのアンクルトリスの顔がウイスキーを飲むほどに赤くなっていく(カラーではないのにそう見える優れものである)様は今でも脳裏に浮かぶ。寿屋が発展していく大きな力になったのは事実である。後に直木賞作家になる山口瞳氏の「トリスを飲んでHawaiiへ行こう」のコピ-は一世を風靡した。芥川賞作家になる前の開高健氏も宣伝部で活躍していた。皆昭和ひとケタ生まれでほぼ全員が鬼籍に入ってしまったが懐かしいので思わず買ってしまった。
日本が戦後、素晴らしい勢いで回復し発展していく原動力を担った人たちの熱い思いが伝わってくる。終わりに著者と山口瞳氏の増補、サントリーHD会長の佐治信忠氏の特別寄稿文もあり、楽しく懐かしく読ませてもらった。
やっと秋になった
令和7年10月2日
連日の猛暑が去って、朝夕は過ごしやすくなった。昼間はまだ暑い日もあるが、しのぎやすくなったのはありがたいことである。それにしても今年の暑さは異常だった。クーラーがなかったら熱中症になる人が後を絶たなかっただろう。昼間は屋外に出るとそれだけで汗が噴き出すので屋内にいるしかなかった。やっと昼間野外活動ができる。運動不足を解消したいし散歩・山歩きなどもしたい。
最近アルコールが増えて、カミさんからレッドカードが出ていたので今週から控えるようにした。なんと翌日から空腹感がよみがえり、ごはんがおいしいこと。そのうえ体重の増加も止まったようなのだ。恥ずかしいことだが「過ぎたるは猶及ばざるが如し」を実感している。ちょっと意味が違うかな。でもこれでいいのだ。
久闊を叙する
令和7年9月26日
猛暑の日々が続いていたが、やっと秋の兆しが感じられるようになった。最近、大学時代の友人と一夕を共にし、大いに語り合えたのは実にうれしいことだった。また、予備校時代の友人とも酒席を共にできたことも感慨深いことであった。どちらの友も人生を全うしている姿を見ると本当に良かったと思うし、友人であったことを誇らしく思ったことであった。まさに「久闊を叙する」である。考えてみれば若い日々のことは、恥ずかしいことや未熟だったことばかり思い出されてしまうが、いろんなことに真摯に向き合ってきたことも確かなことである。旧友に会うとその頃のことが思い出されて、自分の原点はここなんだと知らされる。そして人生の終焉になって自分を肯定できるのは幸せなことである。願わくば自分がかかわってきた人たちもそうあってほしいと心から思う。
感傷的になったのは秋になったからなのかな。
「日中外交秘録」
令和7年9月19日
表題は在中国大使として活躍していた垂秀夫(たるみひでお)氏の回顧録で、「中国が最も恐れる男」との帯がついた文芸春秋読者賞を受賞した著書である。垂氏は京都大学法学部を卒業後外務省に入り、チャイナスクールで一貫して中国・台湾にかかわってきた。2,023年退官後は立命館大学教授で活躍している。
これを読むまではチャイナスクールの人たちは中国に何を言われても言い返せない、弱腰ばかりだったり手なずけられたりなのかと思っていた。政治家も中国詣でをする人が多く、現在の中国は日本を不当に貶めてばかりしていることが大いに不満だった。垂氏の一貫した強い志と、中国の要人や裏要人などとの人脈をつくり、日本と中国が今後どのように付き合っていくかを歴史的に俯瞰して見据えながらの回顧録はじつに面白かった。目からうろこが何枚も落ちた。。
文章が滑らかで読みやすいのは聞き手・構成の城山英巳(しろやまひでみ)氏のおかげだろう。日本と中国は歴史的には日本にとって切っても切れない間柄である。今はいい関係ではないが、先のことはわからない。つねに先を見据えて戦略を立てて行かないと日本のためにならない。政治家には特に読んで欲しいと思った。
開院28周年
令和7年9月12日
平成9年9月10日に開院してから28年経ち29年目に入った。早いもので四半世紀以上この場所で診療をしてきたことになる。その間、最大のピンチはコロナに感染し、重症化したため県病院に入院したことである。挿管まで行われたが幸い回復して3週間の入院で済んだ。他にも市民病院に入院したり、静脈瘤の手術で逓信病院の杉山先生にお世話になったりなどがあったが、おおむね元気で仕事ができたのはありがたいことであった。
今まで続いたのは患者さんが来院してくれることが第一であるが、支えてくれる家族・スタッフのおかげである。深く深く感謝している。医会などの手伝いもさせてもらったおかげで、美味しい店もいっぱい教えてもらった。この頃は美味しい店を新たに見つけようという情熱が衰えてきたように思うが、アンテナはいつも張っている。
いずれにしても現在元気で診療できていることはありがたいことだと思っている。さあ今日も頑張ろう!
「散歩のとき何か食べたくなって」
令和7年9月5日
表題は池波正太郎氏の著作で、昭和52年発刊された。その後文庫化されて現在64刷になっている超ロングセラーである。池波氏の著作は鬼平犯科帳をはじめ、いまだに本屋の棚にはそろっていて、氏の死後35年経っているのに売れ続けているのはすごいことである。ベストセラー作家でも死後売れ続けるのはほんの一握りである。
内容は、氏の日常よく訪れる食べ物屋を記したものであるが、どれも食べてみたいと思わせる筆力で、店のあるじとのかかわりもさりげなく書いていて、心地よく読める。さらにコロナブックスからグラビアにしてそれらの食べ物屋を紹介した本も出ている。神田、浅草、銀座、渋谷、目黒などの店と写真、氏のエッセイを載せている。現在も残っている店もあればなくなった店もある。氏の「生きることは食べることだ」を感じさせるエッセイと共にこれらを見れば、自分がそれらの店に行っているように思える。
氏のファンの中には、本当に店をすべて回った人もいるという。そのような思いをさせる力のある作品である。
「たった一人の30年戦争」
令和7年8月28日
表題は昭和20年の終戦を知らず、フィリピンのルバング島で諜報活動と遊撃戦を続け、昭和49年に元上官の命令により武装解除し、フィリピン軍に投降しマルコス大統領を表敬した後帰国することになった陸軍少尉・小野田寛朗氏(平成26年死去)の著書である。文庫本化されたので読んでみたが非常に面白く、戦前までは軍人は文字通り命がけで戦っていたんだと思った。戦況が悪くなっても「特攻隊」など日本を守るために爆弾を抱えて敵の戦艦に突っ込んでいったのは、我々の親世代のことである。わずか80年前のことで今となっては遠い昔の話になっているが、この本を読むと小野田さんは軍の命令を受け、命令を忠実に守り、たった一人になっても最後まで戦うつもりでいたことがうかがえる。
小野田さんは51歳でジャングルを出て投降し帰国したが、上官の命令がなければ60歳までは戦いを続け、60歳を機に現地のレーダー基地に突入して最後の弾まで打ち尽くして果てるつもりでいた。それが日本から24歳の鈴木紀夫さんが小野田さんを探しに行き、単独で島の中にテントを張って何日も過ごして小野田さんに会え、その後上官であった谷口さんが命令書を伝え武装解除したのである。
小野田さんの著書を読むと文章の底に流れているのは「覚悟」である。命令を遂行するために常に命がけである。戦後の我々に最も欠けているのは「覚悟」ではないだろうか。今、我が国が衰えていくのはそれが原因ではないだろうか。心に響く著書であった。



