カテゴリー 思い出

豊穣の秋

令和3年9月16日
9月になって朝夕は肌寒さも感じられるようになった。これから一年で一番いい季節「天高く馬肥ゆる秋」になる。田舎育ちの身にはこの季節の思い出がよみがえってくる。稲刈り、当時は鎌で刈り取っていたので、日曜日は朝から晩まで手伝うのが当たり前だった。中学3年まで作業していたが、そのころから刈り取る機械ができて手伝わなくてよくなったが農作業は結構大変だった。今はなくなったようだが村祭りも当時はあり、近所の神社に出店が並んでいて、玩具や綿あめを買ってもらって喜んでいた。村の若い衆がみこしを担いで家々を回る。鬼の面をつけて(田舎では「ひょんこ」と言った)棒を持って女子供を追いかけまわして怖がらせる。この日は家ではごちそうが出る、といってもちらし寿司・巻き寿司ぐらいだけれど、子供にとってはうれしい一日だった。
運動会も秋に(東京オリンピックが夏に行われたのは狂気の沙汰である)行われる。小学校の運動会と日曜日に行われる村民運動会。一等になればノートや鉛筆をもらえるので頑張って走ったものだ。まわりはみな農家だったので五穀豊穣を祝うことが大切だったのである。

同門会報

令和3年4月15日
毎年この時期になると同門会報が送られてくる。我々の時代は医師になったらほとんどの人は大学の医局に籍を置いて研修し、先輩医師にいろいろ教えてもらい技能を習得していくのが当たり前だった。そしていろんな病院に年単位で派遣され経験を積むことになっていた。幸い出身の岡山大学は中四国ほぼすべてに関連病院があり、たくさん経験することができた。
同門会報には31の関連病院の報告記事と9つの同門会支部だよりが載っていて、各地の様子が開業して医局人事から外れた今でもわかるのがうれしい。ただ、教えを受けた先生方の中には亡くなられた方も多く、自分も歳をとったものだと感じる。昨年の新入医局員は8人で、その紹介記事は楽しい。これからいろいろなことがあるだろうが、頑張ってほしいと思う。
同門会報を読むと新米医師だったころを思い出してなつかしい。

朧月夜

令和3年4月9日
4月になって日が長くなり、日中は暑さを感じるようになった。夕方散歩していると、周りの風景に小学校の時に習った「朧月夜」を思い出させるような風情を感じた。ほとんどの家が農家だった田舎では、学校に通うときに田んぼの畦道を通ることもあって、まさに「朧月夜」の歌詞と同じだった。菜の花も暮れ行く山の端の風景も、霞がかかったような夕暮れの生暖かさも、まるで自分たちの村の風景を歌っているように思っていた。歌詞は文語調で韻を踏んでいて曲もぴったり合っている。ただ、文語調なので言葉を正確に理解していなかったことを、ずいぶん後になって知った。「夕月かかりてにほひ淡し」の「にほひ」は匂いではなく「目に立つ色合い」という意味で、「さながら霞める」の「さながら」は「のこらず、すべて」ということである。小学校の時には習わなかったような気がするのだが…。やはり文語の詩は風情がある。絶えてほしくないものである。

菜の花畠に 入日薄れ、見渡す山の端 霞ふかし。
春風そよふく 空を見れば、夕月かかりて にほひ淡し。

里わの火影も、森の色も、田中の小路を たどる人も、
蛙のなくねも、鐘の音も、さながら霞める 朧月夜。

Bamboleo

令和3年1月27日
表題(バンボレオ)はジプシーキングの曲であるが、初めて聴いたのはフリオ・イグレシアスがカバーしたものであった。約30年前、モロッコで世界内分泌の学会があり発表したついでに、スペイン・ポルトガルを旅したことがあったが、その時のツアーバスの運転手がずっとフリオの曲を流していてアンダルシア地方の風景とぴったり合って実に快かったのを思い出す。特にバンボレオは何度聞いてもぞくぞくするような素晴らしさで、ポルトガル人の運転手に感動を伝えるとカセットをくれたのだった。
その後、マイライフ~グレイテストヒッツという2枚組のCDを手に入れて何度も聞いているが、フリオの歌唱力は最高である。フリオはレアル・マドリードのゴールキーパーだったが交通事故で瀕死の重傷を負い、療養中に医師である父親のアシスタントからプレゼントされたギターで作った曲が歌謡祭で優勝した。法律の学位を取得すると同時にミリオンセラーを連発するトップスターとなった。全世界のレコード・CDの売り上げは3億枚を超え世界のベストテンに入っている。
フリオの声は暖かく情熱的で快い。ポルトガル人の運転手も大ファンだったようで、フリオの歌をほめられたのが本当にうれしかったのだと思う。いいものに出合うのは素晴らしいことである。

コロナ太り

令和2年8月7日
最近体重が過去最高に近い状態になっている。かつて30歳の頃、小豆島の病院に大学より派遣されて2年間勤務したが、この時が生涯で最も体重が増していた。なにしろ赴任していた町立病院の産婦人科医師は自分一人なので、休日も島からは出られずストレスが貯まる上に遊ぶ場所もない。他の医師たちは休日は本土へ遊びに行くが、いつお産があるかわからないので出かけられない。島内の観光場所などは1ヶ月もあれば行き尽きてしまう。わずかに夕方から病院内の有志でするテニスぐらいが気晴らしだったが、その後の酒盛りでかえってカロリーの取り過ぎになる。岡山市内への転勤が決まった時にはあわててダイエットをしたものである。太り過ぎはカッコ悪いではないか。この時は1か月ちょっとで10kg減らした。
今回のコロナ太り(本当はコロナとは関係なく単なる食べ過ぎ)にはさすがに困っているが、若い時に比べてモチベーションが湧かないのは困りものである。ダイエットをしなければと思いながら今日も美味しく晩酌をしている、嗚呼。

閑谷学校

令和2年7月27日
連休(と言っても土曜日は診療していたが)に友人夫婦と特別史跡閑谷(しずたに)学校を訪れた。閑谷学校は岡山県備前市にあり、1670年に岡山藩主池田光政によって創建された世界最古(?)の庶民のための公立学校で、備前平野の閑静な山裾にひっそり建つ日本遺産でもある。広い敷地に国宝の講堂をはじめ、学房、聖廟、神社などの建物があり、周囲を300年経っても変わらない精緻に造られた石塀が取り囲んでいる。隣には椿山があり池田光政公が祀られていて、手前には青少年教育センターも併設されている。
実はこの施設を学生時代使用したことがあったのだが、50年近く前とほとんど変わらぬ佇まいに感嘆したことである。大学男声合唱団の夏の合宿で滞在は1週間ぐらいだったと思うが、昔はこんな風にしていたのかという貴重な体験だった。周囲に何もないので気が散らないし、大きな声を出しても迷惑にならない。その分、1週間も経つともやもやして来て街の明かりが恋しくなってくる。昔の人はこれも鍛練と思って勉学に励んだのだろう。夏は涼しいが冬はさぞ寒かったことと思う。久しぶりにいいものを見せてもらった。

梅雨の晴れ間

令和2年7月17日
九州から中国地方にかけての豪雨が去り、久しぶりの好天である。梅雨明けというのか梅雨の晴れ間というのか、いずれにしても晴れた日は気分が良い。「梅雨の晴れ間」という言葉が好きなのは、大学時代に男声合唱団で同名の曲を歌っていたからである。
「梅雨の晴れ間」は北原白秋が26歳の時に著した第2詩集「思い出」の末尾に「柳川風俗詩」として48の詩編がありその中の1編である。白秋の生家は江戸時代から続く商家だったが、大火により酒蔵が全焼し没落した。現在、柳川市に「北原白秋記念館、北原白秋生家」として保存されていて先年訪れたが、かつての富商家の様子がしのばれてしみじみしたものを感じた。
「梅雨の晴れ間」という詩を覚えているのも、故多田武彦氏が作曲し男声合唱曲としてずっと歌い続けられてきたからである。詩と音楽の分野で感性の優れた人同士の作品は、時を超えて歌い継がれるものなのだろう。
「梅雨の晴れ間」
廻せ 廻せ 水ぐるま けふの午(ひる)から忠信が 隈取赤いしゃっ面に
足どりかろく 手もかろく 狐六法踏みゆかむ 花道の下水ぐるま…
廻せ 廻せ 水ぐるま 雨に濡れたる古むしろ 円天井のその屋根に
青い空透き日光の 七宝のごときらきらと 化粧部屋にも笑ふなり
廻せ 廻せ 水ぐるま 梅雨の晴れ間の一日を せめて楽しく浮かれよと
廻り舞台も滑るなり 水を汲み出せ その下の葱の畑のたまり水
廻せ 廻せ 水ぐるま だんだら幕の黒と赤 すこしかかげてなつかしく
旅の女形もさし覗く 水を汲み出せ 平土間の田舎芝居の韮畑
廻せ 廻せ 水ぐるま はやも昼から忠信が 紅隈とったしゃっ面に
足どりかろく手もかろく 狐六法踏みゆかむ 花道の下水ぐるま

懐かしい映像

令和2年5月22日
コロナ騒ぎのおかげでYou-Tubeを見る機会が増えた。最近ハマっているのは吉田拓郎の映像と歌である。高校時代から大学時代にかけて熱心に聞き、自分でもギターを弾いて歌っていた。「旅の宿」「結婚しようよ」「マークⅡ」「おやじの歌」「今日までそして明日から」などはコピーして弾いて歌ったものだ。吉田拓郎の曲はほとんど全部聴いていたし、楽譜もそろえていた。人気が陰り始めてからは、雌伏の時があったようだが心境の変化があったのか、再び我々オールドファンの前に表れるようになった。それらの映像をYou-Tubeで見ることができるのは実にありがたい。広島時代の思い出の場所を中村雅俊と一緒に巡る旅の放送も見ることができた。
はしだのりひこの「沈黙」という歌が一瞬ラジオの深夜放送で流れたことがあり、いい曲だなと気にいっていたがヒットしなかった。でも妙に覚えていてまた聞いてみたいものだと思ってネットで調べたがみつからなかった。最近、誰かが「沈黙」をアップしてくれたので聞くことができた。覚えていたイメージとは少し違っていたが懐かしいものだった。You-Tubeは実に便利でかつてなら「沈黙」を聴くためには、古いレコードを置いている店を回って探さなければならなかったのが、簡単に見つかりすぐに聴ける。ネットのない世界は考えられなくなったが、わずか30年ぐらいのことで驚くしかない。

第22回オープンカンファランス

令和2年2月14日
広島市民病院産婦人科主催の勉強会が行われた。若い医師から部長まで6人の演者が広島市民病院の産婦人科手術の現況を紹介した。今回は腹腔鏡手術からロボット支援下手術までの低侵襲手術を中心に情報開示された。
昨年の手術件数は1509件でそのうち婦人科手術は1039件、さらに婦人科手術のうち腹腔鏡手術は552件、53%に増えている。手術器具や方法の改良などでより安全で侵襲の少ない手術ができるようになっている。なによりうれしかったのは児玉部長の「広島市民病院は24時間対応しているので、緊急手術が若い医師にもできるように研鑽を積ませている。特に腹腔鏡の手術はどの分野に進もうが覚えておくべき技術なので、積極的にやらせるようにしている。」という言葉であった。
振り返って自分が岩国国立病院(現・岩国医療センター)に研修医でいた頃、上司の部長はどんどん手術をやらせてくれた。部長は手術が上手かったがわざと手術室に入らず、控室にいて時々見に来て難しそうならすぐに対処できるようにしてくれていた。おかげで安心して手術することができて、1年間でたくさん症例を重ねることができた。
広島市民病院の児玉部長のこの姿勢は母校の医局の伝統である。この良き伝統が続くことを切に願っている。

読書について

令和2年1月17日
読書についての初めての記憶は小学校へ上がる前、6歳と4歳上の兄たちが学校へ行ったあとヒマにまかせて兄たちが購読していた小学5年生とか6年生などの雑誌を読んでいたことである。その中で「弓鳴り為朝」という物語が好きで、弓のうまい主人公の少年がイノシシを仕留めその肉を焼いて食べるシーンは実に旨そうで、思わず喉が鳴ったものである。その時にイノシシのことを「山クジラ」というのだと知った。小学校へ上がってからは図書室の本を借りまくっていたので、特別にまとめて借りられる特権を得ていた。それ以来活字中毒というか、読書は空気や水と同じで当たり前のもので、特に意識して読書をするのではなく知らぬ間に読んでいるという状態であった。
ところが最近、本屋で面白そうな本を買っても読んでしまう前にどんどん新しいものを見つけて買ってしまうので積読(つんどく)が増えてきている。漫画も読まねばならないし週刊誌も月刊誌もDanchuなどの食べ物の雑誌も読みたいので正直、時間がないのである。TVも見たいしゲームもやりたい、フルートも吹きたい、アルコールも欠かせない、どうしたらいいのだろう。