ドラリオンとおくむら

平成19年9月18日(火)
連休を利用して「ドラリオン」を観に大阪へ行き、京都をまわってきた。ドラリオンはカナダのシルク・ド・ソレイユが世界各地で行っている体操演技を思わせるようなショーで、今回は中国雑技団を連想させる演技が見られた。よくぞここまでできるものだと感心しきりであった。実は以前同じ集団の「アレグリア」も観ているが、前作とは違った面白さがありレベルの高さが感じられた。
京都はまだまだ暑いので、午前中早めに嵯峨野をまわり昼食は予約しておいた「西洋膳所おくむら」一乗寺本店でランチをとったがこれが最もすばらしかった。味、コストパフォーマンス、接客態度、すべて最高で、味にうるさい人にも薦められる。また京都に来る機会があれば次回は夜にぜひ訪れたいと思ったことである。

広島の不思議

平成19年9月8日(土)
広島に住んで16年になるが、どうしてもわからないことが三つある。
一つは広島空港が本郷に移ったことである。ビジネスも含め、最も必要とするのは広島市内の人である。空港が狭いのなら沖へ伸ばせばはるかに少ない費用でできるし、広島の発展のためになったはずだ。本郷に空港ができたとき、週刊新潮に「天下の奇港」という揶揄した記事が載り、心底そう思ったことである。発展する都市は近くに空港を持っている。神戸などはわざわざ新しく海上に造ったのに、広島はせっかくあったものをなにを血迷ったのか山奥へ移転してしまった。本当に広島のことを考える人間なら絶対に湧いてこない発想である。
二つ目は広島大学を東広島に移転させ、跡地利用に困ってなんと!マンションが建つということである。今までの場所が手狭なら、建物を高くすればよいしそのほうがはるかに安くできたのに。その都市を代表するような大学は少なくとも中心都市にあったほうがいいのは常識である。
三つ目は現在進行していることだが、広島市民球場の移転である。われわれ素人には移転する理由がわからない。ヤード跡地を利用するためというが、今の場所で補強して使うことも可能という専門家の意見もある。これもまず初めに移転ありきということか。球場の移転はまだご愛嬌という部分もあるが、前の二つは将来にわたって広島のためにならないと思うのである。

無常を感じる季節

平成19年9月3日(月)
昼間は結構暑い日もあるが、朝夕は涼しくなってきた。9月の後半から10月一杯が一年中でいちばんいい季節である。豊穣の秋であり、同時にもの悲しさを感じる季節でもある。不思議なことに冬になってしまうとそういう感傷はなくなる。秋、それも晩秋に特にそう感じるのである。多くの詩人がこの心境を詩に残している。
私の場合はさすがに感傷はないが、平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とか、般若心経の「色即是空、空即是色」はなるほど真実だとしみじみ思うのだ。どんなに盛んに見えても必ず終わりが来る、そして人は必ず死ぬ、まさに世は無常なのである。そう思わせる季節になったということである。

議員の人相

平成19年8月28日(火)
昔から手相、人相などの占いを信用していなかった。でも、いつの頃からか手相はともかく、人相はその人物を表していると思うようになった。特に人は中年以降になるとそれまでの生きてきた内容が顔に表れてくる。だからどんなに取り繕っても、しばらく話をするとその人となりがわかってしまう。さらにいえば、直接話をしなくても表情や話し方からでもある程度のことはわかると思う。
今回の参議院選挙で当選した議員の中には、どうみても国会議員にふさわしいとは思えない人もいた。もちろん会ったことも話したこともないけれど、マスコミに露出することの多い人なのでテレビに映る人相からそう感じたわけである。多分多くの人もそう感じたと思うが、選挙では知名度が高ければそれだけで当選するという民主主義(自由選挙)の最大の欠点があらわになったということである。民主主義はともすれば衆愚政治に陥りやすいが、独裁政治よりはましである。多少間違った選択をしても、時が解決してくれることだろう。

子宮がんの原因

平成19年8月22日(水)
世界中の子宮がんを調べたところ、その7割にヒト・パピローマウイルスが確認され、子宮がんの原因はHPVであることが認められた。さらにそのうち16・18型のウイルスが問題であることがわかり、ワクチンが作られた。欧米では10代初めの女児にこのワクチンを接種しようとする動きがある。ワクチン接種によりどれくらい防げるのか、副作用はどうか、対費用効果はどうなのかなど不明な点は多い。現在のところはわが国ではすぐにワクチン接種の動きはないが、たとえ欧米である程度効果があったとしてもどうだろうか。
HPVはセックスで感染するウイルスであり、たとえ16・18型の感染があっても、必ずしも癌になるわけではない。ウイルスの関与しない子宮がんも少なからずみられる。さらにわが国と欧米諸国とのエイズの感染率の違いをみてもわかるように、日本人の性活動はおとなしいので欧米の真似をする必要はないと思う。あわてることなくじっくり様子を見てから考えても遅くない。

猛暑

平成19年8月17日(金)
お盆休みが終わって今日から診療開始である。ここ数日の暑さは例年になく激しく、まさに猛暑という言葉がふさわしい。なんでも観測史上最高気温を記録したとか。熱中症による死者も少なからずみられたようである。街中での暑さはことに強烈で、アスファルト、車の多さ、エアコンの数などが原因となっているのだろうがまことに強烈である。
こんな時は昼間は出歩かず屋内でのんびり昼寝でもしていた方がいい。スペインにシェスタという習慣があるのは理にかなっている。確かにあの国ではシェスタの時間はほとんどの店はしまっているし、人通りも少なくなっていたように思う。国民性といえばそうなのだろうが、日本人はこんなときでも一生懸命働くだけでなく、テニスをしたり遊んだりする。実に勤勉な民族だと思う。

横綱朝青龍に見る文化の違い

平成19年8月6日(月)
産経新聞に石原慎太郎氏が「日本よ!」と題したエッセイを月一回載せているが、その中で今回の横綱朝青龍の仮病ーサッカー問題を、外国との文明の衝突であると書いていたが、まことにその通りであると思う。
相撲は日本の国技であり地位が上がれば上がるほど「品格」が求められるという日本古来の伝統がある。対して横綱の故国では別の伝統的基準があり、その基準ではおそらく今回のことは問題ないのだと思う。だから故国でのインタビュウーでは、その国の人々は今回の横綱に対する相撲協会の処分に強い非難のメッセージを寄せたのは当然だろう。国技に外国人を入れた時から、このような問題が起こるのは避けられないことが予見できたと思うが、相撲人気の衰えや新弟子不足から協会も背に腹は代えられずに外国人力士を入れたのだろう。
たとえ日本人であっても、日本独自の伝統的な考えからはみだす行動をとれば袋叩きに逢い、それに従わない限り抹殺される。まして外国人であれば初めは黙って見ていても、日本人の考えの基準にそぐわない行動が目に余るようになれば排除されるだろう。そしてこれらのことをだれもおかしいと思わず、当然であると心から考えるのは、それだけわが国の伝統的考え方が強固であることを証明しているのである。

薬を出し過ぎる施設

平成19年8月2日(木)
当院に来られる患者さんの中には、他科で薬をもらっている人も多いが、薬の種類や量について施設によってかなり違いがある。たくさん(馬に食わせるほど!)出すところはだいたい決まっているが、そういうところの処方には重複がみられることがある。仔細に調べてみると薬をすべて止めても差し支えないと思われる場合もある。患者さんが訴える症状に対する薬を出して、その薬の副作用を抑える薬を出して、更にその薬の副作用を抑える薬を出して…と、きりがない。そもそも薬を出そうが出すまいが結果が変わらないような状態もあるわけである。
そこで、「薬を減らしてもらったら」と言っても本人からはなかなか言い出せないようだ。当院で1種類だけ必要な薬を出そうとしても「先生、これだけ薬を飲んでいるのでこれ以上飲めません」と言われてその種類と量に驚くが、必要なのに困ったことである。こういうのを見ると、政府が薬価差益をなくしたくなる気持ちもわかる気がする。「6種類以上の薬を出すのは犯罪である」という医師もいるが、本当の意味での薬の効果を見直す必要があると思う。

父親へのレクイエム

平成19年7月26日(木)
久しぶりに中島みゆきのCDを聞いてみた。初期のアルバム「臨月」の中に「雪」というとても美しい曲がある。「雪 気がつけばいつしか/なぜこんな夜に降るの/いまあのひとの命が/永い別れ私に告げました…」これは彼女が24歳のときに亡くなった父親へのレクイエムだということを最近知ったので、もう一度聞いてみようと思ったのである。ちなみに中島みゆきの父親は北海道帯広の産婦人科開業医であった。発表した当時この曲を聴いた時には、慕っていた恋人を想って作った空想の中の作品だとばかり思っていたが、父親へのレクイエムとわかって聞くと改めてしみじみといい。
昔、ラジオの深夜放送を聴いていた頃、吉田拓郎がパーソナリティをしていた番組で「昨日親父が亡くなりました。歌を作ったので聞いてください」と言ってギターを弾きながら唄ったのが「おやじの唄」で、感動的であった。同じ頃、森本レオの「親父にさようなら」というモノローグの曲も、父親に対する深い愛情が感じられてよかった。津村信夫の詩集「父のいる庭」も読みかえしてみると本人が35歳で亡くなっていることを考えると、いっそうなんともいえないあじわいがある。

山口瞳著「行きつけの店」

平成19年7月18日(水)
作家の山口瞳氏が亡くなって10年以上経つが依然として根強い人気がある。彼の著書で最も好きなのは「行きつけの店」で、贔屓の店を中心にして氏の人間関係、付き合いをエッセイ風に書いて味わい深い作品である。高倉健が主演した「居酒屋兆次」のモデルになった店もこの中にあった。「縁」を大切にする作者の心意気があらわれていて、どれも一度は行ってみたいと思う店ばかりである。
先ごろ金沢に行った時も作品の中にあった「つる幸」をまず予約し、その後代替わりしているとの情報から先代の弟子の「つる屋」に予約を変更した経緯がある。倉敷、長崎にも作品に書かれた店があり機会があれば行ってみたいものである。
最近、山口瞳夫人が「瞳さん」という本を出した。これは最も身近な妻の立場から見た作家の姿が描かれており興味深い。そういえば壇一雄夫人の話を聞いて沢木耕太郎が書いた「壇」という作品もあった。いずれも作家の等身大の姿をありのままに表していて魅力的であるが、生きているときには書けないのだろうと思う。