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責任

令和2年9月25日
医療機関は患者さんに対してどこまで責任を持てばいいのだろうか。たとえば妊婦健診は妊娠中の様々な異常に対して対応する義務があるが、時間外に異常が発生することが多く、24時間対応できる体制でなければ難しい。お産をする病院は24時間受け入れているので、いつお産が始まっても大丈夫である。だから生まれるまでの期間も含めいつでも対応してもらえる。ただし、この体制を作るために医師はもちろんスタッフの確保、施設の整備など目に見えない多くの努力がある。個人で行うには限界があるので当院では妊婦健診を行わず、妊娠8週で予定日が確定した段階で分娩施設に紹介するようにしている。
時々、患者さんから「妊婦健診を受けている病院に予定外の受診を申し込んだら、予約が一杯だと断られた」といって当院を受診されることがあるが、症状を聞いたうえで急ぐ必要がないと判断してならいいが、そうでなければ?である。さらに「お産の後、乳腺炎のような症状で発熱して痛いのでお産した病院に問い合わせても対応してもらえなかった」という話を聞くと、これまた?を感じる。常識的にはそこまでは対応すべきではないだろうかと。普通はあり得ないことなので、たまたまそうなったのだろうが色々難しい問題をはらんでいる。当院もどこまで責任を持つべきなのか、常識で納得できるところまではと思うが、その常識にも幅があるだろうし。

大型連休?

令和2年5月2日
ゴールデンウイークの最中なのに街は静かなものである。車の数も少ない。いつもならフラワーフェスティバルを控えて人があふれかえっているだろうに。自粛要請を受けた多くの店はシャッターをおろして耐えている。連休明けまでは頑張ろうと、日本中の人たちは大人も子供も外出を控えている。
ところが自粛要請が5月末までになってしまった。これでは経済活動はもとより国民の精神的なダメージはすごいものがあるだろう。かつて「欲しがりません、勝つまでは」と国民に耐乏生活を強いて、挙句の果ては国土を焼け野原にされてしまった当時の指導者と同じことになるだろう。当時もマスコミと軍部指導者が一体となって戦争継続に駆り立ててすべてが終わってしまったのだ。国民も薄々わかっていたけれど、勝つのだという思いに騙されたのである。ウイルスに勝つことはできない。経済活動を少しずつでも再開しなければ、それこそ先の戦争の時と同じようになるだろう。
週刊新潮の記事が指摘するように、「交通事故をゼロにするために、自動車を止めてしまうという方策」を行っているのではないか。

日本統計年鑑

令和2年1月10日
令和元年の我が国の出生数は90万人を切ったそうであるが、日本統計年鑑のデータを見るといろいろなことがわかってくる。昭和40年(1965年)から5年ごとに女性の年齢階級別出生数と出生率を表にしているが、平成2年までは20代後半の女性の出生数が最も多かった。平成2年頃からこの年代の女性の出生数が減り、30代前半の女性の出生数が増えてきて平成17年(2005年)からは30代前半の女性の出生数が最大になった。
最近では20代後半の出生数と30代後半の出生数が同じになっている。これは統計史上初めてのことだと思う。さらに40代後半の出生数については、体外受精という技術が一般化する前までは200~500人ぐらいだったが、平成26年(2014年)からは1200~1400人に増えている。
昭和40年には年間180万人も出生していたのに昨年はその半分になってしまった。広島県のお産をする病院も減少の一途をたどり、新幹線の沿線以外の地域ではお産のできる施設はほとんどなくなった。世界の歴史をみれば民族の興亡は必ずあり、どんなことをしてもこの流れは止まらないだろう。戦後の何もない時代から現在の便利さに満ち溢れた時代までを経験してきた我々世代としては、いい夢を見せてもらったと思うが、まさに「諸行無常」である。

健康診断はいらない

令和元年8月23日
職場の婦人科健診で異常を指摘され受診する人が後を絶たない。調べてみても多くは検査する必要のない状態ばかりである。検診する側は、どんな些細なことでも指摘しておかないと後で訴えられたら困ると思うから様子を見ておいてもよいことでも指摘するのだろうし、受ける側は検診するよう職場から言われるので仕方なしに受けてその結果異常を指摘されて受診されるのだと思う。以前にも書いたが健康診断が役に立つという証拠はないにもかかわらず、厚労省の通達1本でいまだに検診が続けられているのが我が国の現状である。
職場検診が行われているのは世界中で日本だけだという。よその国が健診をしない理由は、健診が命を長引かせるかどうか調べた結果、意味がないことがわかったので各国は健診をやめたそうである。我が国も2005年に厚労省が研究班(班長:福井次矢・聖路加国際病院長)を作って健康診断の有効性を調べて報告書を出した。結果は、健康診断の大半の項目に有効性の証拠は薄い、ということであった。しかもマイナス面として①放射線による発がんの増加②病気の見落としによる治療の遅れ③治療不要な病気の発見による不要な検査・治療の副作用④膨大な費用などが指摘された。これで、健康診断を薦める通達はなくなるかと思ったがどういうわけか握りつぶされてしまった。そしていまだに厚労省の通達のために職場検診が行われて意味のない受診させらている人たちがいる。本当に気の毒なことである。

和洋楽器の違い

令和元年7月26日
以前にも書いたが和洋の考え方の違いは政治・経済・文化などあらゆるところで見られるが、自分の経験した楽器についての違いを考えてみる。尺八とフルートは起源が似ているが異なった改良がなされてきた楽器である。「尺八」は平安時代にはすでに演奏されていた。「フルート」は旧石器時代のヨーロッパに起源があるといわれているが、現代に近いものは、16世紀からだという。初めは7つの穴で縦型と横型の両方があったが、17世紀後半より、半音を正確に出せるように改良され現代のフルートになった。
「尺八」は正倉院に保存されているものと現代のものとほぼ同じで、唄口の形や内部の塗(ぬり)指孔の大きさなどの改良はあるものの決定的な改良はない。名人の吹く尺八の音は心にしみるものであるが、問題は演奏が難しく穴の数が5つしかないので西洋音階を正確に出すのは無理なことである。対して「フルート」は様々な工夫から正確な半音階が出せるし、音もほぼ誰でも出せるように唄口が改良された。その結果、名人でなくても音が出せるし正確な半音を出すことができる。ブラスバンドからオーケストラまで他の楽器とのコラボもできる。対して「尺八」は構造的に音を出すこと自体が難しいうえに、正確な半音階が出せない。いい演奏は名人しかできないので家元制度が生まれ弟子がついていく形にならざるを得ず、近代になって必然的にすたれてきたと思われる。
和弓と洋弓(アーチェリー)を比べればどちらが優っているか歴然としているが、我が国は道具を改良するよりも、すでにあるものを使いこなす名人芸の方を重んじてきた。「弓道」「剣道」など「道」という考え方で技術を磨いてきたけれど、道具を改良したうえで技術を磨くという西洋的な考えの方が、同じ努力をした場合優っていることは明らかだろう。合理的考えを元に研鑽することが大切だと思われる。

診療報酬の話

令和元年6月7日
健康保険を使って診療所・病院を受診すると必要な検査・治療を受けることができる。その場合、かかった金額の3割を支払うだけでよく、残りの7割は健康保険より医療機関に支払われる。この時に医療機関が行った検査・治療(薬も含む)はレセプトに記載され、健康保険(協会・組合)に毎月集められ、その内容が正当なものだと判断されれば残りの7割が支払われる。そして正当でないと判断されれば支払われない。その場合、医療機関は赤字になるので、再審査を要求することができる。
検査・治療をしていいかどうかは病名によって決まっているので、極端に言えば病名さえあればどんなにたくさん検査してもかまわないことになる。腕のいい医者ほど少ない検査で的確に診断して、薬も最小限で治すので治療費も安く済むが、医療機関の収入も少なくなる。逆に、たくさん検査・治療した方が収入が増えるのでそうする医療機関もあるだろうが、それが正当かどうかはだれにもわからない。全く同じ状態の人が同時に別の医療機関を受診して同じように治った時の検査・治療の違いはどうかを比較しないかぎりわからないのである。
レセプト審査委員をしていた時に山ほど病名が付いていっぱい検査をしている医療機関もあり、そこが結構流行っていたりするとなんだかなあと思っていた。検査をたくさんしてもらう方がいいという人や、薬も多い方を喜ぶ人がいるのも事実である。でも自分としては必要最小限の検査で診断して、薬も必要最小限にするのが当たり前だと思うし、患者さんの負担を少なくしてあげたい気持ちは変わらない。いくら検査しようが治療しようがその人がすこしでも良くならなければ意味がない。医療は「癒し」だと思うからである。

日本の人口はどうなる?

平成31年4月26日
平成という年号を使うのもあとわずかになった。激動の昭和、じり貧の平成、さて令和はどうなるのだろう。確実なことは人口が減ることに歯止めが効かないことである。
厚労省は平成30年12月21日付で平成30年人口動態(推計値)を発表した。対象は日本で出生した日本人であるが出生は92万1000人で前年より2万5000人減少、死亡は136万9000人で前年より2万9000人増加した。自然増減数は44万8000人減で前年より更に5万4000人減少、離婚件数は59万組で前年より1万7000組減少だった。
平成28年に出生数が100万人を切り、婚姻数も減少を続けている。婚姻数は5年で7万1000組減り、出生数は10万9000人減っている。
毎年50万人近くの人口が減っているうえに結婚が減り離婚が増えれば人口減少はいっそうすすむ。冷静に考えれば我が国の将来は非常に厳しい。それでもこの流れを変えることは難しいのだろう。一つの国の興亡は人間の一生に似て、なるようにしかならないのだろうか。ゴールデンウイークを前にして、暗い話である。

わが意を得たり

平成30年12月14日
広島保険医新聞の会員訪問欄に福山市で内科を開業している医師のインタビュー記事が載っていた。阪大の工学部を出て就職したが工学は合わないと感じて医学部に再入学し、医師になったそうだ。その後内科に入局し研鑽を積んでいる頃から東洋医学に傾倒して行き、漢方医学専門のクリニックを立ち上げ現在に至っているとのこと。医療に対する考えは、との質問に対して「医療とは検査することではなくて治すこと。人間ドック、特定健診、会社健診の過熱ぶりはおかしい、診療報酬点の設定にも責任がある。中学高校の頃に健康な体とは何かを教育してほしい」との意見であった。
現在の漢方薬に対しては疑問があるが、健康な体作りから始めることは必須で実に納得できる。そして検査のし過ぎに対する批判、ドックや健診に対する考え方には大いに賛同するものである。ただし自分の場合はドックや健診は有用でないという観点からであるが。現代のガイドライン偏重の金太郎飴みたいな医療への警鐘だと感じた。

無痛分娩に思う

平成29年10月6日(金)
今日の新聞に、無痛分娩の際の麻酔ミスにより妊婦が死亡したとして大阪府の産婦人科医院の院長が業務上過失致死容疑で書類送検されたという記事が載っていた。そういえば少し前にも京都でも同じようなことがあり、夫が医院に対して莫大な金額の損害賠償請求をしているという記事もあった。
昔から「お産」は女性にとってまさに命がけの大仕事で、我が国でも70年前は600人に1人は母体死亡があったのである。当時は田舎では家に産婆さんを呼んでお産をするのが普通で、病院でのお産は少なかったこともあるだろうが「お産」とは本来何が起きるかわからないものであることは、産婦人科医なら肝に銘じていることである。今は母体死亡は20000人に1人になったが命がけであることに変わりはない。欧米では無痛分娩が結構行われているようであるが、我が国では6%でまだ少数である。「お産」という自然現象に伴う「痛み」はヒトが許容できる範囲内であるはずである。そして「痛み」はこれ以上だったら命が危ないよと知らせてくれる指標でもある。それを麻酔でなくすることがいいこととは思わない。もし無痛分娩をしたいのならその危険性を納得してするべきで、医師の側も万全の態勢で行わないといけない。そうすると高額になるのは必然でそうでなければ安全にできるはずがない。
「お産」がどんなに危険ととなり合わせか知っておいてもらいたいと産婦人科医は思っている。そしてどんなに技術も持ち誠意をつくしてもうまくいかないことがあることも。

産婦人科開業地図の変遷

平成29年7月14日(金)
袋町に産婦人科クリニックを開業して20年になるが、その間に周辺の開業地図にかなりの変化があった。高齢のため廃業した施設、開業を止め再び勤務医になった先生、病気のためやむなく閉院した施設、継承者がいなくて廃業した施設など、なくなった施設もあったがそれ以上に新たにできた施設が多かった。新規のお産をする施設はごくわずかで、増えているのはお産をしないビルクリニックばかりである。広島市とその周辺でざっと10以上の新規開業があり現在も増えている。個人でお産の施設を開業するのはじつに大変で、膨大な初期投資を回収するためにはたくさんのお産をしなければならないが、そうなると24時間休む暇がなくなるのでよほど精神的肉体的にタフでないとできない。
自分が病院に勤めていた時は夜お産で起こされるのがつらく、翌日は睡眠不足のために忙しい外来や手術をこなすのが大変だった。若く元気だったからできたのだが40歳を過ぎた頃からこのままでは体がもたなくなるだろうと思うようになった。幸い縁あってこの地にビル診を開業させてもらって夜お産で起こされることがなくなった。今もお産をされている施設には本当に感謝しているが、新規開業される先生方もきっと同じ思いなのだろう。この先どのような変化があるかわからないが、お産をする施設は最も大切なのだけれど過酷なため増えることは期待できないと思う。大切にしなければならない。