カテゴリー 日誌

「コロナ自粛の大罪」

令和3年6月24日
表題はジャーナリスト鳥集徹氏の著書で、コロナに対して過剰な自粛を行っていることのマイナス面を訴えている7人の医師との対談集である。それぞれの医師はウイルス研究者、大学教授、小児科医師、緩和ケア専門医、精神科医、プライマリーケア専門医、外来・訪問診療医で、2020年の1年間のコロナの状況をみずからの実践と文献から判断して、過剰自粛がいかに人々に害を与えるかを発信している。
日本は自粛のせいで死亡数は減っているが、自殺は増えている。経済は停滞し多くの業界が自滅せざるを得なくなっている。小児科医師でウイルス研究者の本間真二郎医師はコロナウイルスは怖いものではない。ただ高齢のハイリスクグループには危険なウイルスなので、未知のワクチンはそれらの人に打つだけでいいのではと。また高橋泰国際医療福祉大学教授は98%の日本人にはコロナはただの風邪で2%のハイリスクグループには重症化するウイルスであるとデータを出して説明している。マスコミも恐怖をあおるだけでなく、こういった提言を紹介して人々に正しい判断ができるようにすべきである。コロナ対策分科会にはこれらの人を入れて、政府も知事に総合的な判断をするように提言しないと状況はますます悪いほうへ行くと思う。

「大往生したけりゃ医療とかかわるな(介護編)」

令和3年6月18日
表題は老人ホーム「同和園」の医師で、以前に同名の本を書いた中村仁一氏の著書である。4年前に発刊されたものであるが、最近読み返してみて共感するところが多かったので紹介する。今回は「介護編」ということで人生の終末をどう迎えるかを「同和園」での体験をもとに記している。
生・老・病・死、は生き物には切り離せないもので特に「老」については医者にかかればなんとかなると思っている人が多いが、何ともならないのである。ヒトは子供を育てた後はいつ死んでも仕方がないと考えれば、さまざまな憂いは減ってくる。老化は今まで出来ていたことができなくなるのがあたりまえで、それを無理に戻そうとするのは笑止千万だ。むしろまだ出来ることがあると考えたほうが良い。「死」は医療が関与しなければ穏やかに苦しまずに逝けることを「同和園」での体験から確信している。介護の現場では食べたくない老人に無理やり食べさせているが、これは拷問に等しい。欧米では「食べられなくなったらもうおしまいで、無理に食べさせない」という伝統があり、これが自然に終末を迎える最善の方法であるという。まさにその通りだと思う。

カルテ庫の整理(年中行事)

令和3年6月11日
以前にも書いたがカルテ棚は受付の隣に5つあり、1つに1,000~1200くらい収納できる。新患が1000人増える度にカルテ棚を1つ空ける必要がある。いつもスタッフに何とかやりくりしてもらって空けるようにしているが、今回は初めからのカルテも見直して、5年以上来院していないものは処分することにした。また、しばらく来院していないものも奥のカルテ庫に移して新しい場所を確保するようにしている。電子カルテなら場所は必要ないので楽だと思うが、今さら変えようとは思わない。患者さんも医者がコンピュータ画面ばかり見て話すのは嫌だと思うし。紙カルテなら経過が一目でわかるうえに小さなメモも役に立つ。
1,000増えるごとにこのような作業を行っているが、検査報告書や紹介状の封筒など、様々な紙の多いことに毎回改めて感心している。電子化が進んでも紙はなくてはならないもので、ヒトの歴史とともにありこれからもあり続けるだろう。

断定ではなく

令和3年6月3日
医師から断定のような言葉で診断を聞き、傷ついた人の話を聞くことがある。医学(生物の仕組み)は未知のことだらけで、わからないことのほうがはるかに多いといういことを肝に銘じたうえで、相手の気持ちを思いやって慎重に言葉を選ばないと、何のために医者をやっているのかわからない。「今の状態なら妊娠は不可能だから体外受精以外ではダメだ」とか「ちゃんと通院しなかったら死ぬよ」など医者の言葉とは思えない文言を浴びせられた話を聞く。前者はその後自然妊娠して子供が授かったし、後者は今も元気に過ごしている。
医療はやってみないとわからないことも多いので、試行錯誤の段階で誤りも起きるだろうが、大いなるものに対する畏れを底流にしたうえでの医療でなければと思う。現在はこれが正しい治療ということになっていても後年、それが否定されたことはいくらでもある。問題なのはその治療や予防が取り返しのつかないことを引き起こすことがあることだ。ガイドラインに示されていてもあくまで「今の時点で」ということである。

「勉強の価値」

令和3年5月27日
表題は作家森博嗣氏の著作で、いつもながらユニークな語り口で「勉強」の意味について述べている。多くの人が子供の時に大人から「勉強しなさい」と言われただろうが、勉強とはなにか、本当に意味があるのかを著者の体験から考察している。氏は名古屋大学工学部の4年生になった21歳の時に卒業論文のテーマを与えられて初めて「勉強」の楽しさを知り、あまりの面白さにそのまま大学に残り研究に没頭してきたという。
勉強は楽しくないのが当たり前なのに大人はそれを強制するのはなぜなのか、遊びの方が面白く価値があると思うのにどうして勉強だけが義務なのかと問われたらどう答えるのだろうか。氏は勉強が大嫌いで教科書がすらすら読めないし人の名前も覚えられない、花や虫の名前も覚えられないので、小学校4年の時に「無駄なことに時間を使うのはやめよう」と思っていたという。興味がなかったので勉強をしなかっただけで、本当に面白いと思ったら文字通り寝食を忘れて勉強して助教授になった。アルバイトのつもりで本を書いたら賞をもらいベストセラーになった。10年後に大学を辞めて趣味の生活を楽しんでいる。小中学時代の「勉強」とは「釘の打ち方を覚えること」だというのは、なるほどだと思う。そして本当の「勉強」は絶対に必要である。

緊急事態宣言

令和3年5月19日
ついに広島県に緊急事態宣言が出た。5月16日から月末まで飲食店でのアルコール禁止、時短営業、生活必需品以外は時短営業など閉塞した生活が強いられることになった。これまでの経過と過去の感染の教訓からウイルスを防ぐことはできないことがわかっているにもかかわらず、国民に無理を押し付けている政府の無策ぶりはどうだろう。近藤誠氏の「新型コロナワクチンのひみつ」にどのように対処していくか的確に示しているが、適正な食事、入浴に気を付ける(年間入浴中に2万人亡くなっている)、適度な運動、ストレスフリーな生活をするなど、抵抗力をつけるような生活を心がけることを説いている。ウイルス感染を防ぐことは不可能なのだから、各自が感染したときに重症化しないように日ごろから心がけて生活するしかない。国の経済や生活を維持しながらソフトランディングしていくしかないではないか。ウイルスは変異を繰り返していくからワクチンもそれほど期待できない。オリンピックどころではないのに中止せず、ひたすら国民に無理を押し付けている。心底ダメな国になってしまったと思う。

「新型コロナとワクチンのひみつ」

令和3年5月13日
表題は近藤誠医師による近著である。新型コロナが世界中に広がってからこの感染症について様々な書籍が発売された。感染症の専門家によるものから社会・経済専門家からのものまで多くの著書を読んでみた。医療専門誌にもいろんな記事・論文が出ている。この1年半にわたって行われていることは、「マスクをして3密を避けること」と「早くワクチンを打つ」ということだけだ。それでも感染をおさえることは難しく、簡単に終息させることは無理のように思える。
近藤医師の著書は一般向けに分かりやすく書いているが、多くの論文に基づいた的確な説明で、新型コロナとは何か、免疫とは何か、過去のパンデミック・スペイン風邪との比較、ワクチンの話など余すところなく解説していてタイムリーな著作である。語っている内容にはすべて引用文献の記載があり、わからないことはわからないとはっきり述べている。今後の予測についても納得できるもので、いい本を著してくれたものだと思う。

徒歩通勤

令和3年5月7日
行動自粛を受けたゴールデンウイークも終わり診療再開であるが、このところ運動不足で体重増加と腹囲増大が顕著になってきた。何かスポーツをと思っても腰痛持ちもあって適当なものがない。そこで、毎日できて負担の少ないものは何かと考えたら、徒歩通勤しかないことになった。フルートレッスンのある日を除いて片道3kmを歩いて通勤することにした。普通に歩いてほぼ40分かかるが、何かをやってる感があるのがいい。同じコースだと飽きると思うのでいくつか変えてもいいだろう。実際に歩いてみると今までは気づかなかった街の風景が見えて結構面白い。しばらく続けてみるつもりである。

「死という最後の未来」

令和3年4月30日
表題は石原慎太郎氏と曽野綾子氏の対談で、令和2年6月発行の本である。二人は今年89歳と90歳になるようだが、今までにたくさんの仕事をして我が国では最も知られた作家である。自分は二人のファンで、特に石原氏の作品は高校時代からずっと熱心に読んでいて、大学に入学してヨット部に入ったのも、氏の作品「星と舵」にいたく感動し刺激されたからだった。曽野氏は亡くなられた夫君、三浦朱門氏の「妻をめとらば曽野綾子」という言葉にふさわしい「見目麗しく才長けた」人である。そして心根の強さもそれ以上だと思われる。この二人の対談となれば読んでみたくなるのは必然である。
予想した通りお二人の意見は共感し合いながら底の部分ではそれぞれ異なっていて、今まで描いていた二人の像がそのまま反映されていて面白く読ませてもらった。ほぼ50年、半世紀にわたって愛読してきた二人の作家の今の会話は含蓄深いものがあり、いろいろ考えさせられる。死はあらゆる人に平等にやってくるものであり、じたばたするのも平然と受け入れるのも結局は同じだと思ったことであった。

同門会報

令和3年4月15日
毎年この時期になると同門会報が送られてくる。我々の時代は医師になったらほとんどの人は大学の医局に籍を置いて研修し、先輩医師にいろいろ教えてもらい技能を習得していくのが当たり前だった。そしていろんな病院に年単位で派遣され経験を積むことになっていた。幸い出身の岡山大学は中四国ほぼすべてに関連病院があり、たくさん経験することができた。
同門会報には31の関連病院の報告記事と9つの同門会支部だよりが載っていて、各地の様子が開業して医局人事から外れた今でもわかるのがうれしい。ただ、教えを受けた先生方の中には亡くなられた方も多く、自分も歳をとったものだと感じる。昨年の新入医局員は8人で、その紹介記事は楽しい。これからいろいろなことがあるだろうが、頑張ってほしいと思う。
同門会報を読むと新米医師だったころを思い出してなつかしい。