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年の瀬

令和5年12月21日
月日の経つのは早いもので今年もあとわずかになった。ついこの間新年を迎えたばかりなのに、もう1年が終わろうとしている。この調子では何もできないうちに人生が終わってしまうかもしれない。それはそれで仕方ないけれど。
思えば田舎の農家に生まれて畑仕事や田植え、稲刈りなどを手伝っていた自分が、いつの間にか広島の街中でクリニックを開き、この年まで仕事をしているのは非常に珍しいことではないだろうか。いろんな人と知り合えて、様々な経験を重ねて今があるわけである。子供たちも成長して孫も生まれた。すべて一通り終えて、後はまさに余生である。以前から「人生僅か五十年」だから、50歳を過ぎたら後は余生だと思っていたが、今こそ本当の意味でそうなっている。こういった思いがわいてくるのも「年の瀬」のなせるわざだろうか。

久しぶりの研修会出席

令和5年12月15日
コロナ禍の3年間、研修会はほぼズームで参加していたが、今回の研修会は、臨時総会も兼ねているので久しぶりに出席した。午後6時30分開会なので、診療終了後で間に合うかどうか不安だった。医師会館は駅の北側にあり、夕方は特に混雑する。おまけにタクシーは雨のせいもあってなかなかつかまらない。中央通りまで全速で歩いて、運よく客待ちのタクシーを見つけてやっと間に合った。
今回の議題は、急逝された前会長の後任の新会長の選任と、会則の一部変更である。雨のせいもありズームもおこなっているためか、出席者はほぼ関係者ばかりで机を一人一脚独占し快適に聞くことができた。研修会は某大手製薬会社の製品の宣伝みたいな内容だったので少し興ざめしたが、それだけ力を入れているのだろう。
いずれにせよ会合で知り合いと言葉を交わすだけでも気分が変わって、やはり以前のような会合は必要なのだと思ったことである。

世代交代

令和5年12月8日
同じビルで内科を開業されていたU先生が今年限りで引退される。その送別食事会が行われた。U先生はこのビルができた平成3年にT耳鼻科と同時に開業され、私が平成9年に同じビルで開業した時にはすでにご盛業であった。その後もいろいろなことでお世話になったし、自身の診察もしていただいた。少し前から「そろそろ辞めようかと思っている」と聞いてはいたが、現実になるとやはり寂しいことである。
最近自分より少し上の世代の人たちが、閉院したり辞めたりするのを見るにつけ「もうそんな世代になったのか」と思う今日この頃である。ビルのオーナーのT先生は数年前に後継者に診療を託して引退された。ビルに本部のあるS薬局グループも、息子さんに社長を譲り会長となっている。U先生も次のM先生に診療を託している。残るは自分だけであるが、まだまだやるつもりではいてもどうなるかは神のみぞ知るである。U先生へのご挨拶の最後に高校時代に好きだった漢詩を詠んで締めくくった。先生が遠くに行かれるわけではないが、そんな心境だった。

元二の安西に使ひするを送る(王維)

渭城の朝雨 軽塵を浥し(うるおし)
客舎青青 柳色新たなり
君に勧む更に尽くせ一杯の酒
西のかた陽関を出づれば故人なからん

同門会支部総会

令和5年12月1日(金)
昨年に続き今年も岡山大学医学部産婦人科同門会(広島支部)が開催された。コロナ禍の3年間は中止していたが、昨年から復活したわけである。普段は顔を合わせることのない諸先輩や後輩たちと歓談できるのはうれしいものである。名簿を見ると全員で29名、出席者は21名で若い多くの人は広島市民病院勤務である。最年長はD先生で、大学同門会名簿でも1ページ目に載っている(1ページが12名で年齢順に27ページまである)が、矍鑠とされ安倍晋三元首相の父親、安倍晋太郎氏との交友などを披歴されお元気な姿を拝見した。
自分が広島中電病院に赴任した33年前はまだ若造で、怖い先輩方がずらりと揃っていて同門会では小さくなっていたが、今では我々が長老になろうとしている。月日の経つのは早いもので、こうして時代は過ぎてゆくのだと改めて思った次第である。そういえばもう12月、ついこの間新年を祝ったばかりなのに…
盛年不重来(若い時は二度とやってはこない。)
一日難再晨(一日に朝が二度やってはこない。)
及時当勉励(できる時には楽しみ遊ぶべきである、)
歳月不待人(歳月はひとをまってはくれないのだから。)
陶淵明

ChatGPTの応用

令和5年11月24日
様々な情報をインプットして学習させておいた記憶媒体を利用して、的確な答えを出してくれるChatGPTが話題を呼んでいるが、この仕組みを応用し小型化が進んでいけば、様々な分野で応用できるのではないだろうか。
例えば高齢になって配偶者に先立たれた人の悲しみは深いものがある。相方のいない寂しさは計り知れないことだろう。そこで、会話ができるように進化したChatGPTに生前の配偶者の情報をインプットしておけば、日常会話ができる。さらにその会話もインプットされるので、いつも新鮮な内容の会話ができる。これは残された人には大きな慰めになるだろう。なにしろインプットする情報が多いほど、生前の配偶者(あるいは大切な人)と今までと同じ会話ができるのだから。
AIは今後進化を続けて今では考えられないようなことができるようになるだろう。何しろ我々が子供の頃、現在のようなスマホを一人一人が持って、世界中とつながることができるようになるなんて、思いもよらないことだったから。未来がどうなっていくのか知りたいものだ。

中区4支部忘年会

令和5年11月18日
コロナ禍のため会合がほとんどなくなっていたけれど、4年ぶりに地区忘年会が開かれた。中区第4支部は医療施設が50あまり狭い地域にひしめきあっているが、普段はほとんど顔を合わせることがない。久しぶりに会うと懐かしい気持ちになる。クリニックを始めて27年目になるが、若い人が増えて自分より年上の先生は少なくなってしまった。クリニックをやめたり世代交代を計る先生など、時代は変わって行くのだなと思った次第である。
出席者は20数人だったが、一人一人が近況などスピーチしてなかなか面白かった。中には「初めて参加した時は先輩ばかりで何をしゃべっていいかわからず、小さくなっていたけれど、10年経ってみると自分が中堅どころになっているのがうれしい」という人もいて、まさに自分も同じだったと思った次第である。やはりこういった会合がないとつまらない。コロナが5類感染症に移行してよかった。もっと早く移行すべきだったと思う。

元安会

令和5年10月20日
中電病院OB会の名称を「元安会」といって、元院長のM先生が20数年前に始めた会である。現会長は2代目のF先生であるが、世話人のひとりに指名されたため毎年1回開かれる会合に出席していた。コロナのために3年間会が開かれなかったが、今年からまず人数制限して始めることになった。結局、OBが世話人を含めて20人、病院から6人が参加するこじんまりとした会になった。
久しぶりに会うOBの先生方は初めは老けて見えたけれど話しているうちに昔の若々しさが戻ってきて、懐かしく当時の思い出を語り合うことができた。なにしろ中電病院を辞めて開業したのは26年以上前である。自分を含め皆も年を取るはずである。現院長の話では7年先には中電病院は駅北にできる県病院を中心にした新基幹病院に吸収されることになるそうである。手術件数が減ったことや分娩を辞めたことなどで収入が減ったことも原因とのことで、OBとしては非常に残念なことである。かつて勤めていた時は年間600から700件のお産をしていたが、ある時からお産をやめてしまったのである。安全で安定したお産ができる施設を作るまでには先輩たちの大変な時間と努力が必要だったはずである。それを失くしてしまうとは…
「元安会」がいつまで続くかわからないが発展性はないかもしれない。寂しいことであるが。

休日に訪れる店

令和5年10月6日
月日の経つのは早いものでもう10月、今年も残すところあと3か月である。
休日・午後休診の日にドライブを兼ねていく店はいくつかあるが、最近の定番は「手打ちそばながお」「リトルセイロン」「サカナヤ」「宮島達磨」「饂飩屋幸兵衛」ごくたまに「豚笑」などにも行くが、どの店もそれぞれ特徴があって飽きない。すべて予約なしでふらっと行ける気軽な店である。以前は「蕎麦切り吟」によく行っていたが水曜が休みなので行けなくなった。昔のブログを読み返してみるとずいぶんいろんな店に行っているが、最近は少し食べただけで体重が増えてしまうので重いものはなるべく控えるようにしている。
それにしてもいろんな店で食べたものである。生きることは食べることであるとの名言があるが、まさにその通りでいくつになっても変わらないし、食欲がなくなるのは命が絶えるときだろう。コロナで重症化していた時は全く食欲がなかったことを思い出すと、今の状態は本当にありがたいと思う。次はどの店に行こうかな。

忘れた

令和5年9月15日
最近、2つの講演をスルーしてしまった。一つは広大で行われた講演で、WEBで視聴する予定で、当日(日曜日)朝からクリニックに出かけパソコンを開いたが、視聴するための案内メールがなくなっている。間違えて消去してしまったようだ。あらかじめ「間違えて消去する人がいますので注意を」とのメールがあったのに…
昨日は夜7時からの講演で、これもWEBだけれどしっかり視聴できるように準備していたにもかかわらず、午後の外来が終わってほっとしてそのまま帰宅。食事を終えて入浴した時に、何か忘れていたような気がすると思っていて「そうだ!講演があったんだ」と気づいたが後の祭り。ボケが始まったのかと思ってしまった。カレンダーにはスケジュールを書いていて毎日見ているにもかかわらず失念するのはいかがなものか。困ったものだ。

孫たち集合

令和5年8月17日
台風の合間を縫って次女が信州から帰省した。一日、長女と長男の孫たちも我が家に集まって宴会となった。中3の女の子を筆頭に1歳の男児まで総計6人の孫たちが一堂に会したが、このような機会はなかなかないだろうと思うと、感慨深いものがあった。いつの間にか1歳の子も皆の中に溶け込んで、いとこ同士のつきあいの始まりである。
田舎育ちの自分の家は親戚同士3軒が固まっていて、いとこ、又いとこなど6人がいて遊んだりしたものだ。今は核家族になってこんな集まりはなくなってしまった。今回のような集まりは孫たちの記憶に残るだろうと思うと貴重である。
途中から一人離れて録画しておいたゴッドファーザーの第一作を観ながら感慨にふけっていたが、昨年のコロナで命を失くしていたかもしれなかったことを思えば本当にありがたいと思ったことである。