令和2年12月25日
年賀状のあて名ははいつも筆ぐるめを使っている。以前は自分で書いていた時もあったが、悪筆のため気合を入れてもうまく書けないし、書き損じもたくさん出るため自筆はあきらめたのである。今年もそろそろ始めようと筆ぐるめを開いて印刷を始めたのだが、「あ」行が済んで「か」行に入って突然画面が消え、再び起動したらデータがなくなっていた。いろいろ試したが戻らないのでまたデータを打ち込みながら印刷することにした。思い当たることではパソコンの動きが遅くなって買ってからの年数も経つので、最近新しい機種に替えたことぐらいしかない。「なんてことだ」と思いながら合間に打ち込んでいる。ありがたいことに、元帳のルーズリーフがあるのでそれを見ながら打ち込めばいいので煩雑ささえ厭わなければ何とかなる。やはりデジタルよりアナログだと改めて思った次第である。
カテゴリー 日々是好日
住所録が消えた
光陰矢の如し
令和2年12月15日
今秋から本格的に冷えてきて今日は雪がちらほら舞っている。一年が過ぎるのはあっという間で、まだ何にもしていないのに終わろうとしている感がある。年を取るほど時間がたつのが早いというが、それを実感する日々である。何よりコロナ騒ぎのために人との交流の機会が少なくなり、講演会などもほぼ中止、同業の先生方と顔を合わせることがないので動静がわからない。亡くなられた先生もおられたが、後で聞いただけだった。忘年会もなくなているがやはりヒトは集う動物だと実感している。
寒くなっても相変わらず自転車通勤しているし、昼は周辺の店で食事、夜もそこそこ食事に出るし、自分の日常はあまり変わっていない。毎日の生活を機嫌よく繰り返しているうちにあっという間に一年が経ったという感じである。本当はありがたいことなのだと思う。光陰矢の如しで幸せなのだ。
唇の形
令和2年12月11日
尺八の上達を諦めて今はフルートを吹いているが、新たな壁に阻まれている。尺八の時もそうだったのだが、いい音をさりげなく出すためには、唇からの息の束が安定して出る必要がある。特に高音域では細い息の束がポイントをつかなければなめらかないい音は出せない。なかなかうまくいかないのでいろいろ試してみたが、唇の形に問題があるのではないかと思った。自分の上唇は、鳥のくちばしのように真ん中がとがっている。だから口をすぼめて息を出すと上唇に邪魔されて息は左右に分かれる。低音域と中音域はまだいいが、高音域になると安定しないのである。そこで、高音域になるにしたがって側方から息を出すように変えていくと、なんとか音が出るようである。はたしてこれで自在に吹きこなせるようなるのかわからないが、今のところはこれしかないだろう。
自分は父親とはあまり似ていないと思っていたが、上唇の形はそっくりでやはりDNAはすごいとあらためて思っている。
またもコロナ騒動
令和2年12月4日
昔から冬になるとコロナ風邪が流行っていた。今はインフルエンザの方が症状も重く感染力も強いので、コロナ風邪のことはあまり言わなくなったが、インフルエンザは強力なのでワクチンなどで対処してきた。でも実際のところワクチンはたいして効果がないこともわかってきたし、重傷者は入院治療で対処し、他は自宅で治るのを待てばよかった。
それが憎むべき武漢コロナウイルスのために世界中が大変なことになっている。特に欧米は死者も多く疲弊している。日本はありがたいことに重症者も死者も欧米に比べれば格段に少なく、欧米の専門家は「ジャパンミラクル」と呼んでいるそうだ。インフルエンザよりも感染者数・重症者数・死者数がはるかに少ないのだから2類からインフルと同じ5類にすれば経済も回復し自殺者も減るだろう。
コロナは冬になれば蔓延するのは当たり前で、防ぐことは不可能と思っていたらこのところわが国でも感染者が増えてきた。広島市では先週の木曜から今週の水曜までの1週間で110人の新たな感染者が報告された。重症者は0、中等症1、あとは軽症か無症状である。インフルよりずっとマシである。マスコミもあおり過ぎだと思う。インフルと同じ扱いにするべきである。
旅行中止
令和2年11月13日
秋は紅葉の季節、特に京都は紅葉の名所に事欠かない。今は外国人旅行者はほとんどいないのでチャンスとばかり、連休には京都に行こうと思った。紅葉を見るのが一番だが、京都大学博物館に一度行ってみたかったので申し込んだらOKだった。駅近くのホテルも予約できたし、夕食の店も確保できた。さらに帰りに京都伊勢丹で菱岩の弁当も予約できたので楽しみだった。帰宅して菱岩の弁当を肴に酒を飲むのは、旅行の楽しみをいっそう深めてくれる。実は以前菱岩まで行って弁当を買ったことがあるぐらいファンだった。
ところが最近、全国でコロナの感染が急増しているとの報道が流され、毎日のように危機感をあおっている。広島市でもまた感染者が増え始めている。ほとんどの人は軽症か無症状であるが。いずれにせよこの状況になったら京都旅行はやめざるを得ない。残念だがすべてキャンセルした。コロナは5類感染症にすべきではなかろうか。
深まる秋
令和2年11月6日
日中はそうでもないが朝夕は冷えこむようになり、自転車通勤の服装も冬支度になった。まことに季節は巡りくるもので、1年なんてあっという間である。過去の診療日誌、11月の項を読んでみると毎年、同じようなことを書いている。講演会や同門会、会食など最も多いのが11月で、話題に事欠かなかった。12月は忘年会はあるものの、会合はむしろ少ないのが最近の傾向だった。今年は武漢コロナのせいで一変している。講演会、同門会、会食はほぼゼロ、欧米では再び移動禁止措置がとられ始めている。日本はまだ抑制が効いているようで感染者、重症者共に少ない。早く元の状態に戻ってほしいが無理なようである。コロナ前と後で世界が変わるのではないか。それでも季節は巡り、過ぎて行く。これからは師走、正月、大寒、それから春と日々変わって行くことだろう。せめて季節を楽しんで行きたいものである。
開院23周年
令和2年9月11日
昨日の朝、クリニックに着いて日付のゴム印を変えた時に気付いた「そういえば23年前のこの日に開院したんだ」と。早速診療日誌を見たら、5年前に「開院18周年」の文章があった。つい最近「開院〇〇年」の文章を書いたように思っていたが、あれからもう5年経っていた。まことに月日の経つのは早いものだ。「仰げば尊し」の歌詞に「思えばいと疾(と)し この年月」というところがあるがまさにその通りである。5年どころか23年も一炊の夢で、月日が矢のように過ぎて行く。同時に記憶力が落ちてくるので余計にそう感じるのだろう。
尺八を置いて替わりに始めたフルートでは、高音部の音出しがなかなかスムーズにいかない。これも呼吸による代謝亢進を図りながら同時に行う指と頭の訓練だと思ってやっているが、始めてみると面白く時が経つのを忘れるくらいである。「アルルの女第2組曲」のメヌエットが吹けるようになりたいと思っているのだが。診療はもちろん、いろんなことをこれからもマイペースでやって行きたいものである。
夏の終わりに
令和2年8月28日
日中はまだまだ暑いが、朝夕はしのぎやすくなってきた。律儀なもので四季は毎年、きちんと巡ってくる。それに合わせて服装を始め生活様式を変えて凌いできたわけだが、昔の生活と比べると格段に良くなっているのは間違いない。明治、大正、昭和初期の頃の文学や随筆などを読んでみると、その頃の日常生活がおぼろげながら浮かんでくる。自分が農家出身で田舎の生活が身についていたので想像できるわけである。洗濯機・冷蔵庫・テレビはいずれも小学校時代以降に買って、それまではごはんはカマドで焚き、洗濯はたらいで行い、風呂は五右衛門風呂、トイレはぽっとん便所、これが村では当たり前の状態だった。水は井戸から汲み夏は戸をあけ放ち蚊帳をつり、冬は風呂を沸かした後の炭を使ったこたつで暖を取った。現代はその頃の生活からは考えられないくらい快適な時代になった。今から昔の生活に戻れと言われても無理である。ほぼ全員が高性能パソコン(スマホ)を持つようになるなど想像もつかなかった。こんな時代がいつまでも続くとは思えないとふと考えてしまう季節の変わり目である。
仁淀ブル―
令和2年8月21日
Go to travelを利用して四国に行った。高知県の山岳観光のメッカ、工石山を背景にした高知市から車で30分の「オーベルジュ土佐山」が予約できたからである。車で出発、瀬戸大橋を渡り香川県の道の駅で讃岐うどん、前から行ってみたいと思っていた徳島県の祖谷のかずら橋へ。奥深い渓谷なので人は少ないだろうと思っていたが、結構多かった。それでも15分ぐらい待って渡ったが、普段なら3時間待ちとのこと。3密を避けるために行ったのだが、同じように考えている人が多いとみえた。その後高知市を素通りして土佐山へ。狭い道を抜けると水の上に浮かぶような宿が現れた。部屋数は14とコテージが3でゆったりしている。温泉は露天風呂もあり、湯船から空を見ると星が全天を覆い尽くしているようで、これほどの星を見たのは初めてである。
翌日は清流仁淀川をさかのぼって「にこ淵」へ。道が狭く車のすれ違いのできないところが多くてひやひやしたが、早めに出発したおかげで何とか駐車場所もあり「にこ淵」を見ることができた。その時はブル―ではなくグリーンだったが光の加減できれいなブルーになるという。その後は松山市のうなぎ店「つしま」へ。ここは以前から松山に行った時はよく行くうなぎ屋で自分の好みである。どこにも寄らずしまなみ海道を渡って広島へ着いたのは夕方、四国全県を通過したことになる。時節柄とはいえ気分転換になるいい旅だった。
行きつけの店
令和2年8月12日
ここ10年くらいは、夕食に行った店を記録している。元来、そんなことを記録するような性格ではなかったのだが、新たに尺八を習い始めた師匠の教えを毎回書き留めるノートを作ったのが始まりだった。A4ノートに1回のレッスン(稽古と言う)の内容を1ページにまとめていた。そのノートの余白に夕食(飲みも含めて)に誰とどこに行ったかをメモすることにしたのである。初めの頃は結構記載漏れがあったが、途中からはきちんと書くようにしたので、会食の詳しい記録になっている。初めの頃はホテルなどの会食を除いて、和食の店が多かった。小料理屋・居酒屋も結構通っていて、いくつもの店がなくなっていったのも見た。通っているうちにいつの間にか落ち着ける「行きつけの店」ができてくる。味もそうだが、やはり店主との相性が良くないと通う気になれない。そうして「行きつけ」になった店も、やがて店主の高齢化や他の理由で閉店になったり、店の料理人が新しく店を始めてそこへも通うようになったり色々変化がある。
「行きつけの店」のカウンターに座ると楽しい気持ちになり、今日はどのような組み合わせで食事をしようかと揉み手をする心境になる。自分にとってアルコールは料理を美味しく食べるために欠かせないが、元来アルコールに弱いので飲み過ぎにならないのがありがたい。最近は和と洋が半々で、洋の時はワインを飲むようになって食の世界が広がっている。