カテゴリー 本

山本七平氏について

平成19年6月4日(月)
とうかさんが終わると例年では梅雨に入る。今年はいつもより祭りが早かったので入梅はもう少しあとになりそうだ。
先日、評論家として活動していた「山本七平」という名前をグーグルに打ち込んで検索したところ、以前手に入れたいと思っていたが絶版になっていた本が古書として売られていることがわかったので、さっそく注文してみた。1984年発行の「山本七平全対話集」と氏のがんになってから死ぬまでのことを著した「七平ガンとかく闘えり」である。便利になったものだ。ネットのない時代にはこれらの古書を探すのは大変だった。今は全国ネットになっているのでたいていの本は手に入るようになった。
齢五十にもなると心情的に共感を持ってきた作家や世に出た人達の生き方の行方を見守ると同時に、死に様を知りたいと思うようになってきている。山本七平氏は「日本人とユダヤ人」という本で世に出たが、その後精力的にたくさんの本を著した。一時ほとんど全著作を読んだが、彼の本の内容の間違いを指摘し、完膚なきまでに論破した宗教学者の本もありじつに面白かった。一人の人間の評価は棺を蓋ってはじめて確定するといわれるが、何十年も経ってから再評価されることもある。山本氏の評価はほぼ固まっていると思われるが、今後再び脚光を浴びることがあるかもしれない。そういう意味で古典は歴史の試練を経て評価されているので貴重な人類の遺産というべきである。

曽野綾子氏のエッセイ

平成19年5月11日(金)
「貧困の光景」という曽野綾子氏の最近のエッセイ集を読むと、自分の考えていた貧困と氏が実際に見てきたアフリカ諸国の貧困とは程度が天と地ほど違うことがわかる。氏が以前より活動してきた海外邦人宣教者活動援助後援会でのレポートともいうべきエッセイは、まさに世界は不公平であり、人は生まれる場所を選べないということを教えてくれる。氏の定義する「貧困」とは、「その日、食べるものがない状態」のことである。当然であるが明日になっても食べるものがあるかどうかはわからない。そういう意味で日本には「貧困」はない、という。
わが国は世界でも有数の豊かな国であり、安全面からも気候からもこれ以上何を望もうというくらい恵まれている。むろん勤勉な国民性と高い教育によることが大きいが、エッセイに登場する国々と比べると条件が違いすぎる。日本は気候も温暖で雨が多く植物が育ちやすい。周りの海からは食料となる魚、貝類、昆布などがたくさんとれる。他国からの侵略もほとんどなかった。そしていっそう豊かになった今がある。現代の日本に生まれたことを心から感謝する思いと同時に、恵まれない国々の人々に対して後ろめたい気持ちがするのも事実である。

岩田健太郎著「悪魔の味方」に思う

平成19年3月12日(月)
以前「米国医療の現場から」というタイトルでアメリカの病院からブログを発信していた岩田健太郎医師が帰国し、その内容をまとめた著書を著した。「悪魔の味方」というひねった題名の本であるが、さすがにロンドン、中国、アメリカ(ここが最も長い)で働いた経験に基づいて書いており、なかなか興味深かった。
その中で何度も強調していることは、日本はなんでもアメリカと比較しすぎるということであった。アメリカで認められることは世界で認められることと同義と思っている人が多いのでは、と看破している。ヨーロッパをはじめ他の国々はアメリカを含め他国をもっと冷静に見ており、なんでもアメリカがいいとは思っていない。特に医学の世界ではそれが顕著であるという。さらに、著者は日本の医療は総合的に見て世界の中でかなり良いと経験に基づいて述べている。
思うに、日本は孤立した島国のせいなのか、昔からどうしても力のある国々に認めてもらいたいという意識が強く、昔は中国一辺倒であり、今はアメリカがすべてになっているのではないか。イラク問題にしてももっと冷静に対処すべきで、アメリカの忠犬ハチ公になってどうするのだろう。そういえばヤンキースの松井選手やマリナーズのイチロー選手、今年入団した松坂選手などのアメリカでの動向が逐一伝えられるのも同じ心理的構造の所以だろう。
かつて日本の医師は「カルテ」にドイツ語の単語を書き連ね、病名はドイツ語で言い交わすことがアカデミックと考えた。今は英語がドイツ語に置き換わっただけで構造は同じである。明治以前は漢方が隆盛を極めていた。つまりいつも自国の言葉をそのまま使って「カルテ」を書いていないのである。それらの言葉を知らない一般の人には医師の言葉が何か高度なことを行っているように見えるからだろう。たいしたことがないものほど権威をつけたがる。欧米の医師は自国の言葉でわかりやすく「カルテ」を書いているというのに、わが国はそれではありがたみが少ないかのように横文字を使う。
これらの他国に対する孤立感、劣等意識をなくするのは難しいことだと思うが、もしモンゴル帝国、ローマ帝国、大英帝国、などのように我が国が他国と覇を競い勝ったことがあればもっと自信を持てたのではないだろうか。正邪はどうであれ勝つことは必要である。

藤原正彦氏のエッセイ

平成19年1月31日(水)
数学者藤原正彦氏がエッセイに書いていたが、大きな紙に等間隔で平行の線を何本も引き、そこへ平行線の間隔の半分の長さの棒を落とした場合に、棒と平行線が触れる確率はπ分の1だそうである。それに対して読者から実際に実験して調べたら、ほぼそのとおりだったという便りがあったという。その人はなんと、大きな紙に等間隔の平行線を引き、コップに入れた5本の楊枝を2,000回落としてみたところ誤差が1%で正しかったという。さらにコンピューターで試行実験をしたところ、π分の1との誤差は1億回で0.02%、3,000億回で0.0006%になったとのこと。
世の中にはヒマな人もいるものだが、真理はきれいな数字になるものである。そしてそんな一見ムダだと思われるようなことを考えることは、必要なことなのだと思う。

南木佳士氏の作品

平成18年10月11日(水)
現役の医師で作家の南木佳士の作品を愛読しているが、彼の作品に触れるたびに作家とはそうなるべく運命付けられた人だと思う。まず、ものを見る視点が違 う。そしてその視点は私自身が日頃忘れている、場合によっては無意識に考えないようにしていることがらを顕にし、日常生活の中で鈍磨した感覚を一時的にせ よ覚醒させてくれる。そうなんだ、自分もこういう感覚で世の中に相対していた頃があったんだとほろ苦い思いをよみがえらせてくれるのだ。さらに、作家は自 分の出自や思いを書かずにはいられない種類の人間である。どの作家もそうだろうが、生まれた環境と生い立ちは一人ひとり異なり、それゆえ一人の作家は広い 意味で一つの作品しか書けないしそれ以外は本物ではなく、それでいいのだと思う。
以前にも書いたが、下村湖人は戦前から戦後にかけて教育に携わったすぐれた仕事をした人であるが、やはり「次郎物語」に尽きるしこの作品は彼の全人生をか けた名著である。南木氏の作品もそれぞれのテーマは異なっているが底に流れる旋律は同じで、いつも静謐であたたかく、一方で繊細で危うさのある魂を感じさ せてくれる。優れた作家の作品に触れるのは幸せなことである。

磯田道史著「殿様の通信簿」

平成18年6月27日(火)
磯田道史著「殿様の通信簿」という本がある。ベストセラーとなった「武士の家計簿」の著者の作品であるが前作と同様に古文書をもとに江戸時代の各地の「お殿様」に対する幕府の評価と実際のところはどうだったのかなどを記していて面白い。
時代劇などで大奥で寝泊りして昼はあまりすることがないのでボーっとして過ごしている「バカ殿様」が描かれているが、それは事実だったらしい。無論全部の 殿様がそうではなく一部ではあったようだが、実際お家を存続させるためには「殿様」はお家の象徴であり、なまじ政治に口出したりせずそういうことは優秀な 部下たちにまかせて子作りに励んで習い事でもしておいたほうがよかったのである。だから「能」好きな殿様が実に多かったそうである。
考えてみれば「殿様」はあまり面白くなかったのではないだろうか。お家を創るまでは実力も運も必要で、うまく「お家」ができるのはまさに僥倖でありそれだ けに喜びも大きかっただろう。しかしひとたび「お家」が確立してしまえば「お家の存続」だけが必須となり、前記のようなことになるのである。これは武士の 世界に限らず商人の世界でも同じようで、「船場」のことを描いた山崎豊子の小説を読めば、戦前までの「老舗」の存続のさせ方は武家の「お家」の存続のさせ 方と実によく似ていると思うのである。

岩波明著「狂気の偽装」

平成18年5月31日(水)
早いものでもう5月も今日で終わりである。一ヶ月など瞬く間に過ぎ去ってゆく。
精神科医の書いた「狂気の偽装」という本によれば、「多重人格」「アダルトチルドレン」などの概念は北米を中心とした医学会の説であり、欧州では否定的見解も多いとのことである。さらに、PTSDは唱えられだした当初は「心的外傷症候群」だったのがいつのまにか「外傷症候群」と「心的」が抜けて本来の意味 からはずれたものをマスコミが使っていることなどを書いていて、なかなか興味深く読むことができた。また、フロイトの学説は疑問点が多いにもかかわらず、 いまだに精神医学の世界では影響力があることも述べられており、納得することが多かった。精神の領域は数値化も映像化もできないので、解明が難しい分野で ある。むしろ機械文明のない昔の方が精神については今よりもよくわかっていたのではないだろうか。

福田和也著「悪女の美食術」

平成18年5月17日(水)
このところ雨の日が続く。梅雨に入ったのかと錯覚しそうだが、気象庁は「プチ梅雨と思ってください」とのこと。いずれにせよ雨が続くとうっとうしい。
評論家福田和也氏の「悪女の美食術」を読むと、評論家という人種がいかに凝り性で興味のあるものに対してしつこく追求するのかがわかって面白い。福田氏は じつにりっぱな食いしん坊であり、食に対するこだわりを極限まで追求している。酒に関してもソムリエよりも知識と経験が豊富なようである。加えて「うつ わ」に対する造詣も深く、フランス料理、中華料理、日本料理などの文化的背景については評論家だけあって詳しい。世界中どこにでも食べに行く行動力もたい したもので、総合的に見て彼に対抗できる食通はなかなかいないのではなかろうか。

精神科のクリニックが増えた

平成18年4月25日(火)
昨日中区袋町東地区医師の集まりがあったが、あらためてこの狭い地区に50施設以上の医療機関がひしめいている凄さを実感した。多くは個人の開業医である がそれにしても医院超密集地区である。そしてこのなかに精神科のクリニックが4施設以上あり、これからもっと増えていくことが予想されるらしい。受診され る患者さんの多くはうつ病やうつ傾向だそうで、都市部に住んだり生活していくことがいかにストレスにさらされてるか想像される。
生きていく上で競争は必要だがあまりに効率にはしるとかえってよくない。最近話題になっている「国家の品格」という本で数学者の藤原正彦氏は欧米の、特にアメリカの効率主義の弱点や欺瞞性をするどくつき、日本は欧米に追随することをやめて我が国が昔からはぐくんできた繊細で高尚な精神世界をとりもどすべきだと説いているが、まことにそのとおりである。戦後あらゆる面でアメリカを手本にしてきたつけがまわってきているのだと思う。

黒鉄ヒロシ著「毎日クローがねえ」

平成18年4月19日(水)
診療日誌を始めてもう2年になる。このように長くなると、次第に書くネタに困るようになってくる。
昔、黒鉄ヒロシという漫画家の「毎日クローがねえ」という秀逸なエッセイ集に次のような話があった。「漫画を連載しているといつもアイデアを出すのに苦労 する。アイデアはいいものから順に、ダイヤモンド、金、銀、銅、石ころと称しているがプロなら最低でも銅でなければならない。でも時に石ころのことがあ り、これが続くと掲載中止になり生活の糧が絶たれ路頭に迷う。とはいえなかなかいいアイデアは浮かばず、さんざん苦労してやっと深夜に金だ!と思っても翌 日になってみるとせいぜい銅のことが多い。ただ長年やっていると銅のあり場所はだいたいわかっているので、いいアイデアが浮かばない時はそこへ行って取っ てくる」とのこと。
私の場合はプロでもないしこの日誌を見る人は少ないと思われるが、なんとなくその感覚がわかるような気がする。つまり、ネタがないときはあそこへ行けば何 かあるぞという場所が2年も書いているといくつか見つかっているのである。でもだれにも教えてやらない(だれも聞いてこないか)。