令和6年4月26日
このところいろんな店に行きたいという意欲が落ちているように思う。以前はいい店があると知ればすぐに予約して出かけていたのに、今は新しい店をあまり開拓していない。旅行でも美味しい店が予約できなければ行かなかったのに、今はあまりこだわらない。数年前までは訪れた店をすべて記録していたが、最近は時々抜けてしまうことがある。何より食べる量が減っている(体重は増えているが)。昼に行く店も量の多くないところを選ぶようにしている。何しろ昼にとんかつを食べただけで体重が500gは増える(ような気がする)。一旦増えたらもう減らない。この間、生涯最高体重になって焦った。やはり代謝が落ちているうえに身体をあまり動かしていないからだろう。
平成22年4月から平成30年8月までの訪れた店の一覧表があるが、全部で260軒、一度だけしか行ってない店から80回以上訪れた店までよくまあこんなに行ったものだと自分ながら感心する。初めの頃は鮨や和食、居酒屋が主だったが次第にパスタ、焼肉などの店が増えてきて大体半々くらいになっている。かつてよく行っていたが行かなくなった店、もうなくなった店、今も通っている店など一覧表を眺めているだけでその頃の思い出がよみがえってくる。
今でも週1~2回は出かけるが、かつてに比べて回数も意欲も落ちている。そろそろ新店開拓しなければと思う。
月別記事一覧 2024年4月
パワーが落ちた?
「穏やかな死に医療はいらない」
令和6年4月19日
表題はがん専門の「緩和ケア萬田診療所」を営む萬田緑平医師の著作である。萬田氏は群馬大学医学部を卒業し17年間外科医として働き数百枚の死亡診断書を書き、その後在宅緩和ケア医になって14年間で1500枚の死亡診断書を書いたという。2,000人以上の死を見てしみじみ思うのは、生き方が死に方に出るということであると。
外科医として第一線で働いているときは、病気を治す・延命を図ることにひたすら頑張ってきたが、治せない・治らないがんを見続けているうちに、治療できなくなった患者さんの悲惨な姿を見るうちに、緩和ケア医になることにしたという。患者さんの治療(抗がん剤など)がいかに過酷で寿命を縮め、穏やかな死を迎えさせなくするかを見て今の診療所を立ち上げたのである。
萬田医師のもとで終末期を迎えた人たちの穏やかな死は、病院でチューブのつながれて苦しんで亡くなることと比べてどんなに人間らしいか。それを実際に行っている氏の著書を読むと、こういう医師が近くにいたらどんなに心強いことだろうと思う。今、日本中で同じような志を持って在宅治療をしている施設も増えているように感じる。そうなってほしいと熱望する。
宇能鴻一郎再び
令和6年4月12日
新潮文庫より復活新刊となった宇能鴻一郎の短編集「姫君を喰う話」と「アルマジロの手」は本屋で偶然見かけて読んでみたが実に面白かった。
氏は昭和9年生まれで、東大大学院在学中に発表した「鯨神(くじらがみ)」で芥川賞を受賞し作家活動に専念する。ユニークな作品を発表していったがいつのころからか「あたし濡れるんです」というエロかわいい官能小説で一世を風靡し、高額所得者の作家部門で7位になり「ポルノ宇能さん」と呼ばれるようになった。その後は氏の作品を見ることはなくなり世間から忘れられた存在だったが、この度初期の作品集が刊行されそのすばらしさに触れて他の作品も読みたくなった。
氏は満州での敗戦体験が原型にあり、食と官能を生命力の象徴として信用し、戦後の文化人が大切にした「正義」や「常識」などは一夜にして変わるものだとして信用していなかった。そして人間の奥底にある欲望、願望、妄想を抉り出す作品を生み出していった。実に味のある作品ばかりで、今後も氏の作品は残っていってほしいと思う。
さくら開花
令和6年4月5日
雨の後さくらの開花宣言が出された。もっと早いと予想されていたけれど寒い日が続いたので遅くなったのだろう。今日は天気もいいし花見に出かける人が多いのではないか。平和公園周辺の川沿いのさくらは見事なので、午後が休みの日は弁当と飲み物を用意して行ったものだ。気温も暑からず寒からずで、まさに花見日和に弁当を広げて季節を満喫するのはいいものである。春はそれだけで気持ちが高揚してくる季節で、それにさくらが加わると「日本に生まれてよかった」と思える。
中学の教科書でならった谷川俊太郎の「はる」の詩は今でも覚えていて、こんな時に浮かんでくる。
はなをこえて しろいくもが
くもをこえて ふかいそらが
はなをこえ くもをこえ そらをこえ
わたしはいつまでものぼってゆける
はるのひととき
わたしはかみさまとしずかなはなしをした