平成18年3月31日(金)
昨日は婦人科で対処する女性のうつ病について島根大学の教授の講演があった。うつ病とまではいかなくてもそれに近い状態の人は多く、婦人科の患者さんの中 には気持ちの落ち込みやうつが原因で身体症状の出ている人も多々みられる。昔から「病は気から」というが、実際それは真実である。ある調査によればプラセボー(偽薬)でも30%の人が効いたと感じたそうである。だからただの粉でも強く効くと思って飲めば30%の人には効いた気がするのである。
当院にもストレスや気分の落ち込みが強い患者さんは多く、うつ病が原因と思われる身体症状がある場合は早めに精神科を紹介するようにしている。今回の話を 聞いて思ったのは、うつ病を見分ける診断基準は大切だが、やはり見分ける医師のセンス(勘)が最も大切だということである。講演された教授も話を聞いた感 じではそのセンスがあり、そういう医師のところには自然にそのような患者さんが集まるのもうなずける。
月別記事一覧 2006年3月
婦人科で対処するうつ病
医師は神になれるのか?
平成18年3月28日(火)
すっかり暖かくなり今週末は桜が咲く。私にとって桜と春は同義語である。桜が咲いたら春が来たと実感できる。ちなみに桜の語源は「咲く」という動詞に名詞化する接尾語「ら」がつけられて「さくら」となったそうである。
このところ末期のがん患者の呼吸器をはずした医師のことが話題になっている。考えさせられることの多い事件である。回復する見込みがなく呼吸器をはずせば確実に死んでしまう状態の患者さんに対して家族から何とかして欲しいと要求があったらどうするかということである。
この命題は今回のケースとはやや異なっているかもしれないが、このように単純化して考えた場合「医師は神になれるか」ということである。第一に呼吸器その他により本来は亡くなっている人を生かすことは正しいのか?第二に生かしている状態が不合理だからといって止めさせられることができるのか?命を永らえさせたいと思うのは医師にとって最も必要なことであるが同時に癒そうとすることも同じく大切なことである。たとえ命が短くなったとしても癒しの方が大切なこともあるのではないか。さらに癒しは本人だけでなく周りの人にも必要なことが多い。
今回のケースは、命を永らえさせるよりも癒しの方が大切だと判断したのだと思う。問われるべきはこの判断が正しいのか、そもそも医師がこの判断をしていいのかということである。医師が神になれるかというのはこのことで、この判断ができるのは神だけだろう。実際は「神」は概念であり現実に目の前に二者択一を迫られている状況があった場合、まじめであればそれだけ今回のような選択をすることは十分考えられる。いちばん安易なのはなにもせず様子をみていくことで、家族から要求されようが意味のない延命だと思おうが、呼吸器をはずさず延命処置を続ければいいのだ。
今回の問題は非常に大切なことなので簡単に結論はでないだろうが、じっくり考えて皆が納得できるような指針ができればと思うし作らなければならないだろう。
食のエッセイ
平成18年3月24日(金)
食のエッセイの名著といえば壇一雄の「美味放浪記」が好きであるが、最近見つけた著名なジャーナリストで作家の徳岡孝夫著「舌づくし」もすばらしい。食の評論家(最近ではフードジャーナリストと称しているらしい)の「どこそこの店がうまい」などの通り一遍の文章とは違って、その時々の作者の人生に深くかかわった食にまつわる話がなんとも秀逸である。人は食なくしては生きていけないのであり、それ故食をおろそかにすることは短い人生無駄にするに等しいのでは ないだろうか。自分の場合は単なる食いしん坊にすぎないのだけれど。
石川利光氏の演奏会
平成18年3月20日(月)
先日、久しぶりに尺八の演奏会に行った。神戸在住の石川利光という演奏家の会で、内容も良く満足のいく演奏であった。ピアノ伴奏との息もピッタリ合って、 なかなか良かった。ただ、わずか60人ぐらいの観客のほとんどが関係者で、一般客は少ないようであった。この人数では演奏会としてはペイしないのではと心配になった。また、尺八がいかにマイナーな楽器であるかを再認識することとなったのは皮肉なことである。
南米のケーナや英国のバグパイプの方がまだ世界的にはメジャーなのかもしれない。尺八の良さがわかってきた自分としては非常に残念なことである。思うに明治時代に西洋に追いつけとばかりあせったために、音楽は西洋音楽一辺倒になり、和楽器は義務教育から省かれてしまったことが衰退の大きな原因ではないだろうか。和太鼓、三味線、琴、横笛、尺八など我が国の歴史と伝統のある音楽が軽んじられて、西洋音楽がまるで高尚なブランドのようになってしまったのである。我が国の西洋音楽の基礎をつくったともいうべきあの夭逝した滝廉太郎は、尺八の名手だったそうだ。
うまくいく場所
平成18年3月15日(水)
クリニックの近くにはいろいろな店(テナント)があり、ずっと安定してうまくいっている所としょっちゅう店が変わっている所とがある。偶然なのかわからないが、変わる所はいつも1~2年ごとに違う店になっている。どういうわけかいつも同じ場所が変わっていくのである。いずれもその商売がうまくいかなかったということだろうが、まるでその場所に自縛霊でもいて商売の邪魔をしているのではないかと思ってしまう。逆に、どんな店が入ってもうまくいく場所もあるのではないだろうか。いずれにせよ場所を選ぶことはとても大切だと思ってしまう。
診療報酬が下げられた
平成18年3月11日(土)
4月から診療報酬がまたも下げられ、改革に名を借りた医療報酬(特に医師)への締め付けが続く。さらに医療ミスということで各地で医療従事者の逮捕の報道が頻繁にみられる。逮捕されても仕方ないケースもあるが、どうみてもいいがかりのような医療者には気の毒なケースもある。昨今ほど医療が批判の対象になったことはないのではなかろうか。我が国の医療水準は世界でもトップクラスで、経済効率からも世界一と評価されているにもかかわらず、なぜかお上とマスコミからは改革をするように責められている。いったい何を改革すればいいのだろうか。どういじってもこれ以上総合的にみてよくなるとは思えない。もちろんこまかい問題はあるだろうが、国民皆保険により平等な負担で受診できて高水準を保った医療が受けられるのは、世界的にみてもすばらしいことであると思うのだが。
うれしい知らせ
平成18年3月8日(水)
啓蟄も過ぎてこのところおだやかな日が続く。「三寒四温」とはよく言ったもので季節は暦のとおりに巡ってくる。
先日不妊治療で妊娠となり、出産のために里帰りされていた患者さんのご主人から「無事に生まれました」との知らせがあった。こういう時が一番うれしい。この仕事をしていてよかったと思える瞬間である。どんな仕事でも難しければ難しいほど相手(ユーザー)に満足してもらうのが最もやりがいを感じる時である。 我々の仕事は結果次第のことが多いので、完璧にやっても結果がうまくいかなかったら満足してもらえないばかりか、訴えられることもある。結局は誠心誠意やるしかないが、やはりうまくいって喜んでもらえるのはうれしいことである。
医師で作家の南木佳士は末期の肺がん患者ばかりを看取っているうちに精神に変調をきたして、病院に行けなくなったことを書いているが、そうなるのも仕方がないと思う。人は希望のない状態ばかり見ることには耐えられないようにできているのだから。
気になっていたラーメン店
平成18年3月4日(土)
前から気になっていて一回行ってみようと思っていたラーメン屋「海風堂」に行く機会があった。だしも麺もなかなかよかったが、何回も行きたいとは思わないのはどうしてだろうか。十年前だったら何回か通ったかもしれないが、このところラーメンを少し重く感じるようになったのだ。それなら行くなと言われるかもしれないが、ずいぶん前からその店の前を通るたびに、一度寄ってみたいと思っていたからだ。思っていたとおり美味しかった。それでも以前はあまり好きでなかったうどんの方が重くなく、飽きが来ないように感じるのである。
年齢と共に好みが異なってきたのは、体が要求する栄養が油、動物性たんぱく質、濃い味付けから炭水化物、植物性たんぱく質、魚、薄味へと変わってきたからだろうか。そういえばラーメンを食べたのは久しぶりであった。うどんなら週に三回は食べているのに。(「海風堂」はその後吉島に移転、繁盛している)
弥生三月
平成18年3月1日(水)
今日から弥生三月である。暦の上では春だが、あと何回か寒い日が続いて暖かくなるのだろう。例年は三月半ば頃に暖かくなって油断していると最後に寒い日が あって、やっとおもむろに春が来る。はるか昔からこのようなパターンで四季が移り変わってきたのだろう。それに合わせていろいろな伝統行事が行われてきた。我が国はまことに風情がありこのような国に住めることは幸せなことだと思う。