平成17年9月13日(火)
「胃がん(スキルス)の発見が3ヶ月遅れたために適切な治療を受ける機会が遅れた」との訴えに対して最高裁は「相当な理由がある」と判断したという。こういった判断が出るのは、医師が長年にわたって「早期発見、早期治療ががん死を減らす」ということを言い続けてきたからだ。
ところががん検診により早期がんは多く見つかるようになっても死亡数はあまり減っていないという現実があり、ことは単純ではないとわかってきた。特に肺がんでは検診の有効性は否定されており、他のがんもおそらく同様になるのではないだろうか。つまりホスト(宿主)側の遺伝子の問題で「治る人は治るが、治らない人は治らない」という、検診を推進する医療側にはきびしい現実が見られるのである。さらに昔から医師は、治るかもしれないからという理由で大きなダメージをあたえる手術、抗がん剤治療を行ってきた。医師も患者も共に、治らないかもしれないということは認めたくないので何とかしようとする。でも実際には治る人は治るがそうでない人は、きびしい治療のダメージだけ残り苦しむのは本人である。
ではどうすればいいのだろうか。一つは治療の有効性、治療に伴う副作用、治療をしてもしなくても予後が変わらないのであればそのことをはっきり公開する、などをすべてきちんとおこなうことである。そのうえで、痛みや不快感など不自由に対する対症療法をいっそうきちんと行えるようにして、同時に精神的な支援を充実させることが必要だと思う。
カテゴリー 意見
医師は本当のことを言え
人生50年があたりまえ
平成17年9月9日(金)
生物学者本川達雄氏によれば、平均寿命が80年になったのは人類600万年の歴史でわずかここ30年のことだそうである。なるほど自分が子供の頃は還暦は祝うべきめでたい比較的まれなことだったように思う。それが今では70歳でも元気なのがあたりまえになってしまった。こういう経験は人類には今までなかったわけで、どうしてよいかわからないのはあたりまえである。
生物は年を取ればそれだけ体にガタがくるので、永遠をめざすためには自分の複製である子供をつくって次につなげるしかないのだ。そして多くの生物は子を作ったら生を終える。哺乳類は親が子供を一人前にしてから死ぬので、子が自力でエサを取れるようになるまでは生きている必要があるが、子供が一人前になればお役御免でその後の生はもうけものであった。昔からそれがあたりまえであり、それ以外の選択はなかった。むしろ、子を産み一人前にできればめでたいことで、それ以上を望むのはぜいたくであったと思われる。
それが今はどうかというと、50歳からの30年の健康と生きがいを求めなければならないのである。この余分な30年は生物としては不自然な大量のエネルギーを使うことによって成立しているそうである。こんな状態が長続きするはずがない。アフリカなどは今でも平均寿命は30~40歳の国もある。いずれは我々も元の寿命に戻るかもしれない。
セカンドオピニオンについての考え
平成17年7月29日(金)
当院にもセカンドオピニオンを求めて来院される患者さんがおられるが、ほとんどの場合初めの医療機関の診断・治療方針と同じ意見である。むしろそれとは関係なく来院されて問診の際に以前の診断と治療に?を感じることの方が多いように思う。診断に関しては診断した時期が異なれば微妙に違うこともあるし見立て違いもあるだろうが、一旦診断が確定し治療を始めれば内容によっては患者さんになんらかのストレスを与えることになる。
子宮内膜症などはこういう事が起こりやすい典型的な疾患で、いろいろな問題を含んでいる。まず診断そのものが初期のばあいは難しい。つぎに、たとえ正確に診断できてもなかなかいい治療法がないということもある。そのために高額な薬や長期にわたるフォローをするようになり、場合によってはよりストレスを与えてしまうこともあるかもしれない。したがってこういう疾患はなによりもまず正確な診断が必要であり、治療も長期にわたる可能性があるのでできるだけ患者さんの負担が少ないようにする必要がある。それぞれの治療法の利点と欠点を説明して選んでもらうようにしているが、どうしても自分がいいと思っている方法をよりくわしく説明してしまうようだ。
誘導は良くないとは思うが、みすみすあまりよくないと思っている治療法を選ばれるのは気の毒である。そのあたりのことが難しいのである。
ピル普及のためのセミナー
平成17年7月26日(火)
先日医療従事者を対象にしたピル普及のためのセミナーに参加してみた。ピルの会社がスポンサーになっていて、産婦人科の医師とスタッフをターゲットにしてピルを普及させるように啓蒙する試みで、全国各地で何回か行われているようである。会場には結構参加者がいたが、惜しむらくは医師の参加が少なくその大部分はすでにピルを積極的に処方している人ばかりで、頼まれて参加している人たちがほとんどのようであった。私はピルの会社からはいっさい頼まれていなかったが、興味があったので参加したのである。そこで思ったことは、ピルの有効性を認めて処方している医師ばかり集めてもあまり意味はなく、処方していない医師に話をしないとセミナーの目的は果たせないだろうが、興味のない医師はそもそも集まらないから難しいということだ。またいくらピルがいいからとすすめてもユーザーが必要を感じなければこれまた意味がない。なんでも日本は先進国のなかではピルの普及率が最も低く、1,8%で(ちなみに欧米では20~40%だそうである)もっと普及させようということである。
広島で多くのピルを処方している医療機関の一つである当院の感触では、日本でのピルの普及はそのメンタリティゆえに難しいだろうと感じる。最近は若い世代が結構使うようになっているが、ピルは自然に反するとの気持ちの強い世代には論外のようだ。私としては、必要な人には勧めているがこちらから大々的に宣伝してまで出そうとは思わない。
才能と努力
平成17年6月29日(水)
才能と努力の二つを兼ね備えた人物はどの分野にもいて、世のため人のためになり世に知られるようになる。しかし、世の中の多くの人は両方ともないか、片方 だけしかもそれほど傑出していないのが普通である。努力は才能のない我々凡人には最も大切なことで、努力しなければろくなことにならないのは世人の認める ところである。
一方、才能に関しては生まれつきのもので努力だけではどうしようもないものが多い。たとえばスポーツなどでははっきりしていて、百メートルを早く走れる人 は最初から早いのであり、練習したから16秒かかっていたのが11秒になるわけではない。せいぜい2秒早くなる程度だろう。音楽の才能もやはり天賦のもの で、楽器の演奏などはうまい人は初めからうまい上に、一層努力するからさらに技術に磨きがかかる。才能があるから努力できるわけで、もし全然なければはじ めから努力しようという発想がないだろう。
なぜこんなことを云うかというと、尺八がうまくならないからである。少し音が出るようになったと感じたのは幻想であったことに気付いてしまったのだ。師匠 の主催するおさらい会の課題曲「六段」を琴と合わせて練習したのだが、録音した音を聞いてがっくりきた。琴はすばらしいのだが、尺八のひどいこと。そもそ も音が出ていない。もともと音そのものを出すのが難しい楽器ではあるのだが、それにしてもである。こういうのは努力だけではどうしようもないのだろうか。
運命についての考察
平成17年5月13日(金)
固体発生は系統発生をくり返すというが、個人はどんなに高名な人物でも自分の育った環境から逃れることはできないようだ。この場合の環境とは、生まれた時代、場所、親子関係、周囲の状況、本人の資質などである。これらは自分ではどうすることもできない。それゆえ、運命なのである。
はじめにそう思ったのは「次郎物語」を読んだ時だった。作者の下村湖人は教育者として、思想家としてすばらしい仕事を積み重ねて来ており、さまざまな困難を乗り越えてきた「巨人」というのにふさわしい人物で、次郎物語を書き始めた時はもう六十を過ぎていたが、自分の生い立ちを通しての人間形成の過程を克明に物語の形で語ったのがこの物語である。その中で本人の性格を含め、生い立ちに必然的にまつわる処々の状況にどう対処し成長していったかを、小説の形で詳 しく記している。自分の分身である次郎が運命である環境をどう考え対処し、どのように苦闘しつつ幼年期、少年期、青年期を過ごしていったかを真摯な文章で記しているのである。
最近南木佳士の作品を読み、改めて人は生まれた環境、運命を死ぬまで引きずって生きていくのだと思ったことである。一人の人間の物語はその人にしかなく、 一人ひとりが物語を一つ描けるだけなのだ。これを神のような視点から見れば、一人ひとりが同じようなところで悩み、同じように成長して、同じように死んでいくと思えるのかもしれない。人間からアリの群れを見るとどのアリも同じようにしか見えない。一人の人間の成長も神の視点からは、系統発生のようなものでわずかな違いがあるだけではないだろうか。たとえそうであったとしても、人間の喜怒哀楽はそのわずかの違いの中にあると思うし、日々のささいなことから幸せを感じたりすることも事実で、人間はいとおしい存在だと思うのである。
治療は慎重に
平成17年4月15日(金)
妊娠中期に子宮の頚管が1,5cm以下の場合早産になる確率が高いことは、以前からわかっていた。それに対して、安静と頚管を縛る手術をすることが行われてきた。ところが最近手術をした場合とせずに経過をみた場合と、早産になる確率は変わらなかったとの論文が発表された。この論文は信頼できる内容であり、 以前に同様の検証をした別のグループの論文と同じ結果となっている。じつは以前に発表された、頚管を縛る手術が早産を防ぐのに有効であるという論文は、症例も少なくたまたまそうなったに過ぎないという意見の方が強くなっているようである。
昔から、その時代時代に流行の治療法や手術が行われてきたが、後になって有効でないとわかって廃れたものはたくさんある。問題なのはその治療や手術が患者さんに苦痛をあたえたり取り返しのつかないようになることである。たとえば切り取った臓器はもう新しくはできず失われたままである。産婦人科でかつて盛んに行われていたが今では全く行われなくなった手術にアレキサンダーの手術というのがある。今から30年以上前まで行われていたが、我々の世代より下の医師はその名前すら知らないはずである。アレキサンダーの手術とは子宮後屈矯正のための手術で、昔は女性の腰痛や生理痛の原因は子宮後屈のせいだと言われていたから、それを治すためと称して行われていたのである。無論当時の医師たちは心からその治療法を信じて、一生懸命治してあげようと努力したのは事実であるが。この治療は有効でないだけで、不都合が生じるわけではないのでまだよいが、そうでない治療はいくらでもある。
我々が子供の頃は一本の注射器で針を換えずに何人もの子供が予防接種を受けていたことを思い出す。ウイルス性の肝炎などの概念のない時代であり、注射針から血液を介してそれらの病気が感染するなどわからなかったのであろう。それよりも子供たちの日本脳炎や結核を防ぐために行っていたのである。血液製剤や輸 血による感染などもそうである。どんな治療法もある程度年月を経ないと、真偽のほどはわからない部分がある。だから一層治療をする時は本当にこれでいいのか何度も考えながら行うべきである。怖れるあまり何もできなくなっても困るが、極力むだなことは検査も含めてしないようにすべきだろう。一生懸命やったからとか、心から相手のことを思ってやったからといって許されるわけではないのである。
反日教育をしている日本人
平成17年4月11日(月)
昨日は桜も満開になり、花見には絶好だったようだ。残念ながら夕方からは雨になり桜も散ってしまうと思われる。
時事評論はしたくないのだが、隣の国では日本叩きが官民一体(?)で行われているようだ。日本としてはきちんと抗議すべきであるがいつもやりきれなく思う のは、国内のこれらの日本叩きを助長してきた一部のマスコミや教育者である。昔からどこの国の新聞かと思うほど日本が悪いといい続けているのもあるし、教育者の中にも日本を嫌いにさせるような反日教育をしている人もいるとか。そんなに日本が嫌いなら日本叩きをしている国へ行ってしまえばいいのに、こういう 人たちに限って国内でぬくぬくとした生活を送っている。ちょうど大企業に勤めていて結構な給料をもらいながら、ライバルの会社を持ち上げ自分の会社の悪口を言い続けているようなものである。しかもそれで自分たちが正義を行っていると思っているのだからなにをか言わんや。
我が国ではかの国と異なり言論の自由が認められているから何を言っても自由だが、国益をそこない、ひいては我々国民のためにならないようなふるまいは、もっと恥ずかしそうにしてもらいたいものである。良識あるサイレントマジョリティはこれらに対して黙ってはいるが、心の中ではにがにがしく思っているに違いない。
邦楽も大切に
平成17年3月11日(金)
最近ようやく少しだけ音が出るようになった。何の音かといえば尺八のことである。なにしろはじめはいくら吹いても音そのものが出ないし、出ても不安定でとても曲など演奏できなかったのだがここにきてようやく薄明かりが見えてきたように思う。今までいくつかの楽器を経験したが尺八は最も音を出すのが難しい楽 器の一つだと思う。ただし、音が出るようになればこれほど複雑玄妙な音の出せる楽器も少ないのではないか。
日本は明治維新の時に西洋に追いつくために、法律から産業、髪型から衣服に至るまでそれまでのやりかたをすべて変えてしまった。音楽も西洋の音楽を目標にして教育してきた。その結果、邦楽はマイナーになってしまい、和楽器に接することもなくなってしまった。現在では邦楽の演奏会は、趣味の人だけが細々とやっているだけである。ただ、このところ津軽三味線や篳篥(ひちりき)などで頑張っている才能ある若い人たちが出てきて、心強い。
そもそも日本はいつも極端で、西洋音楽がいいとなったらそれまでの歴史と伝統のある音楽をやめてしまう。学校でも和楽器に触れさせるようにすれば、ここまでマイナーになることはなかったのではないか。なにしろ西洋クラシック音楽の方が高級であるかのようにもてはやされていた時代があったのである。それぞれの国にはそれぞれの音楽があり、たとえばスペインにはフラメンコ、ポルトガルにはファドがある。バリ島にはケチャがありアメリカにはジャズがある。いずれもその音楽が発生して発展してきた歴史があるわけである。日本には和楽器を中心にした音楽があったのに、それに見向きもしなくなってしまった。好き嫌いでそうなったのならしかたがないが、国の政策として西洋音楽を一段上に置き学校で教え、伝統の音楽を古臭いものとして遠ざけてしまったのである。その結果邦楽は現在トキかと思われるようになっている。興味を示す人が少なければ、すぐれた才能も出てこない。消えてしまうことはないだろうが、いいものなので少しでも後の世代に残せるようにしていきたいものである。
私のやり方
平成17年2月25日(金)
人にはそれぞれの才能や性格にあった生き方があり大ざっぱに分けて、攻撃的に前へ前へと進むタイプとあまり無理せず分にあった(と自分で思う)やり方をするタイプがあると思う。
私自身は時にはもっと積極的に前へ進んでもいいのではと思うことがあるが、本質的に後者である。積極的に前に進むタイプならクリニックを始めた場合、まず小さなクリニックからはじめて集客に励み利益をどんどんあげて大きくし、人を増やし病院にして付属施設を増やし一大コンチエルンをつくるのが理想かもしれないだろうし、商売を始めたなら客を増やし支店をつくり一大チェーンを築き上げるのがいいと思うだろうし。もちろんこういうことができるのは才能と運、なにより人間の器が必要で、成功すればそれはそれですばらしいことだろう。でも自分にはそういう才能もないし、そうなった時の自分を想像してもピンと来ない。たとえそうなったとしても心から満足できるようには思えない。
やはり自分は目の前の一人ひとりの患者さんに、自身で責任のとれる範囲内の人数を一人ひとりの顔を見ながら診療するのが好きだし性に合っている。当院を受診してよかったと思ってくれる人が一人でも増えれば、このうえない喜びなのである。