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クリニックの内装

平成23年9月27日(火)
クリニックの床とクロスの張り替えを行った。一見、それほど劣化していないように見えるので一年、また一年と延ばしていたが、これ以上は無理だと思って業者と相談して日曜日に一日で強行することにした。結局7割しかできず残りは後日になったがとりあえずはこれでよし。
開業4年足らずの平成13年(2001年)3月24日土曜日午後3時27分、マグニチュード6,7の芸予地震が発生した。瀬戸内海広島沖、安芸灘直下が震源地で、県内の最大震度6弱、広島市は震度5弱だったそうである。ちょうど外来診察中で患者さんが診察台から下りたところで大きな揺れが起こり、机にしがみついたがこのまま揺れが続いたら建物が崩壊するのではないかと実に怖かった。幸い揺れはじきにおさまり患者さんにもスタッフにも怪我はなかったが、医療器具を収納している重いスチール製の戸棚が倒れ、器具は散乱しガラスは破れ、後片づけが大変だった。困ったのが壁のクロスに破れが生じたことである。少しずつ何か所もあり全面交換するほどでもないが、気になるので業者に頼んで応急処置をしてもらったけれどそこに目がいくたびに不快であった。
震度5弱でもこの被害である。あらためて東日本大震災の規模の大きさと被害の深刻さを思ったことである。

伊勢・志摩

平成23年9月20日(火)
久しぶりの連休なので伊勢参りを兼ねて伊勢・志摩に行ってきた。伊勢参りは江戸時代より「おかげ参り」といわれ、めでたいことがあったことのお礼の意味で行われていたという。最盛期には年間450万人、当時の人口からいうと5人に1人がお参りしたほどのブームだったそうである。孫も無事に生まれたし、一度は行っておきたかったので思い立ったわけである。幸い、宿は前から泊まってみたいと思っていた志摩観光ホテルが予約できた。
伊勢神宮には外宮の豊受大神宮と内宮の皇大神宮の二つの神様が祭ってあり、御祭神は天照大神で御神体は三種の神器のひとつ、八咫鏡(やたのかがみ)である。参拝者は思ったよりもはるかに多く、特に内宮の門前町を擬したおかげ横丁は人また人で、まっすぐには歩けないくらいであった。内宮は山全体が聖地になっていて、苔むした木々の間を歩いていると、聖なる霊気に触れるような思いがする。わが国は仏教も強く根付いているが、古事記にもあるように大本は神々の国である。初詣に神社にお参りして祈るのは、我々の生活の一部になっている。その大本ともいうべき伊勢の聖地を訪ねることができたのはありがたいことであった。

いつまでも「まろ」

平成23年7月15日(金)
愛犬まろ診察室の机の上に、カミさんの描いた愛犬「まろ」の絵を絵ハガキにして写真立てに入れているが、時々患者さんから「先生のおうちのワンちゃんですか?」と聞かれる。実は自宅のテレビの横に本物の「絵」と写真を飾っていて、つい先日もカミさんと「まろが亡くなって2年になるなあ」と話したばかりである。子供たちにとっても、一緒に暮らしていた「家族」が亡くなるのはとてもつらいことだったが、今では貴重な経験をさせてくれた「まろ」に改めて感謝している。
養老孟司氏は「死」には一人称と二人称と三人称がある、という。一人称の死とは自分が死ぬことで、二人称は親子、夫婦、兄弟などごく身近な死であり、三人称はその他である。自分の死は何も分からなくなるから関係ないし、他人のそれもほぼ関係ない。二人称の死だけが、その人にとって本物の死であるというが、まことにそのとおりである。まろは天国へ行って、今頃は輪廻転生しているかもしれない。

故郷の冬

平成22年2月4日(木)
今日からまた寒い日が続くというが、同じ広島市でも安佐南区より北は温度差が結構あるようだ。祇園大橋を渡ると一挙に気候が変わるといわれている。そこより北では雪が降っていても旧市内は降雪なしのことも多い。
故郷の笠岡も海沿いの市内は温暖でも、実家のある北の盆地は結構寒かった。冬といえば霜柱、池の氷、つららはあたりまえの風景であった。朝、通学の時に田んぼの霜柱を踏む時のザクッという感触は、心地よいものだった。つららはポキッと折ってかじりながら歩いたものである。たまに砂糖をつけて食べるとうまいものだった。今はどうなのだろう、地球温暖化で昔のようではないのだろうか。

麻呂も夢を見ていた?

平成21年12月24日(木)
夢を見るのは人間だけかと思っていたら、犬も夢を見るのだという映像をテレビで見た。床に横臥して寝ていた犬が前足・後ろ足を全力疾走しているように動かし、そのうち目を覚ましたとたんに実際に走り出して壁に激突する映像である。きっと夢の中では精一杯走っていたので、目を覚ましてもそのまま走ってしまったのだろう。
大脳皮質の発達している動物ならおしなべて夢を見たり、考えたりしているものと思われる。そういえば、亡くなった我が家の愛犬「麻呂」もいろんなことがわかっていたようだ。近所の人からも「麻呂ちゃんはかしこいですね」といつも言われていたし、実際性格の良い賢い犬だったので(親バカ?)きっと夢を見たり考えたりしていたことだろう。

快適な自転車通勤

平成21年9月17日(木)
さわやかな秋の日である。自転車通勤には最も適した季節になった。コースはほぼ決まっていて、比治山トンネルを通るルートが気に入っている。橋を渡る時は高低差があるので少ししんどいが、あとの平和大通りは安全で快適だ。
開業するまでは、どんなに近くても車で通勤していたことを思えば、うそのようである。高校時代の片道10キロの自転車通学がイヤで仕方がなかったことが、その後の「いつでも車通勤」につながったのではないかと今になって思う。なにしろ30代の頃でもまだ、高校へ車で通学する夢を見るくらいだったからだ。オートバイでの通学は禁止だったが、夏休みの部活には家にあったスーパーカブ号をこっそり使っていたが実に快適だった。それが今では喜んで?自転車通勤をしているのだから、変われば変わるものだ。距離が3キロと手頃な上に、道路が広く安全なことが決め手になっているのだろう。

天国に行った麻呂

平成21年8月5日(水)
我が家の愛犬「まろ」が腎不全で亡くなってそろそろひと月になる。息子は朝夕散歩に連れて行って、同志のようにかわいがっていたから、亡くなる1週間のあいだは本当につらそうで、ごはんがのどを通らない時もあった。カミさんは3キロやせた。娘も目を真っ赤にして悲しんだ。
亡くなって、仮住まいのリビングルームに遺骨を遺影とともに飾って朝夕偲んでいるうちに、皆だいぶ落ち着いてきたようだ。息子は今でも毎日、なにかお供えの菓子を買ってきて遺影に供え、翌日自分で食べているようである。私は院長室に飾っている「まろ」の小さい時の写真をときおり眺めている。
入院していた動物病院に会いに行くと、ふらふらになっても家へ帰りたがって、病院の出口のドアのところでじっと待っていた。我が家にすばらしい思い出と癒しをくれた「まろ」はきっと天国から家族を見ていて、リフォームが済んで皆が家に帰ったらいつも寝ていた玄関で迎えてくれるにちがいない。

久しぶりの引っ越し

平成21年7月1日(水)
家のリフォームのためにプチ引っ越しをすることになった。気が重いことである。広島に落ちつくまでに大学の医局の命令で、中四国のいくつもの病院に赴任させられさんざん引っ越しをしたが、最後に引っ越しをしたのは開業する直前だったから12年以上前になる。
若い頃は元気もいいし引っ越しはそれほど負担に感じなかったが、今回はリフォームのためなので必要なものだけ持って、近くのマンションに3か月だけの予定であるが実にイヤである。いちばん気になるのが愛犬「まろ」のこと。玄関につないでいるので、リフォームの間もそのままつないでおいて、朝晩散歩に連れて行く計画にしているが工事中に職人さんたちとうまくやっていってくれるだろうか大いに心配なのである。
「まろ」は最近食欲がなく、ドッグフードはほとんど食べないし好物の納豆やソーセージもしぶしぶ食べているようである。毎年夏になると食欲が落ちるので今年もそうなのかとは思うが、これから家に自分たちがいなくなり、見知らぬ職人さんたちが出入りするようになったらストレスで血を吐きはしないかと思う。リフォームで住みやすくなる喜びよりも、こっちの方が心配である。

夏休み

平成20年7月4日(金)
今日は朝から晴れていて、梅雨明け宣言はまだ出てないが、すっかり夏の日差しである。いつもこの季節になると田舎で川や池、たまには海に泳ぎに行った記憶がよみがえり、もうその元気はなくなったがなんとなくそわそわしてくる。
特に中学時代は夏休みには部活がなければ、ほぼ毎日裏山のため池に泳ぎに行ったものである。帰りには、卓球台を使わせてくれるお寺に寄って卓球をして帰る事が多かった。今から思えば元気なもので、体力は中学高校時代が最もあったと思う。今では2時間もテニスをすれば、もう充分運動した気になって早く冷えたビールが飲みたくなるという、なんとも情けないていたらくである。とはいえ、適当に体を動かして、うまい酒・食事ができるうちが花なので、当分はこのままで行きたいものである。

筍と梅

平成19年4月21日(土)
先日、田舎の父親から「たけのこがとり頃になったので帰ってこないか」という電話があった。ありがたいことである。
田舎にいた頃はこの季節になると日曜日には筍を裏山に掘りに行くのが慣わしだった。くわを持ち、ネコ車を押して山の畑のそばにある小さな竹やぶに行くと、あるわあるわ、地面からちょっとだけのぞいた竹の子がいっぱい見られた。鍬を筍より少し離れた地面に筍に向かって深く打ち込み、てこのように鍬の歯を起こすときれいに掘れる。慣れてくると一回の打ち込みで掘れるのであっという間にあたり一面筍だらけになる。筍を掘るのは楽しいが回収するのは大変である。あちらこちらにある掘ったばかりの土のついた筍を集めてまわるが、袋はすぐに一杯になるし、重い。その袋をネコ車のところまで運んでネコ車が一杯になったら山道を持ち帰るのである。持ち帰った後は米ぬかをまぜて茹でたりしていたようだが、毎日食卓には筍の料理が載っていていいかげん閉口した。
竹は繁殖力の強い植物で、油断していると周りの畑はすぐに竹やぶになってしまう。地下茎が伸びていっていつの間にか離れた畑から竹が生えてくるのである。中学時代には、竹やぶのそばに使っていない畑があったので、父親に「梅の木を植えてもいいか」と頼んで承諾してもらい、6本ばかり植えて育てたことがある。将来は梅林にして梅を収穫し、大儲けしようとたくらんだのである。幸い?うまくいかなかったが、梅の木は残った。でも今はその畑はすっかり竹やぶになってしまい、梅の木は枯れてなくなってしまっている。