平成24年9月21日(金)
16・17日の連休は京都まで新幹線で行き、レンタカーを借りて琵琶湖東岸をドライブして天橋立に泊まった。予定では彦根城を皮切りに歴史探訪しつつ北上し、夕方宿に着くことにしていた。あいにく台風が九州の西を通過していたが、こちらは天気も良くほとんど台風の影響がなかったのはありがたかった。京都から彦根城まで名神高速道に乗ったのが誤算で、交通渋滞のため予定の時間より1時間30分あまり余計にかかったため、彦根城を見た後は直接天橋立に行くしかなかった。
わが国には国宝になっている城は4つしかなく、彦根城はそのうちの1つである。周囲の堀は3重になり石垣も重厚で、関ヶ原の戦いの後、徳川家康が豊臣家と西国の大名を監視する務めを井伊直政に命じ、早世した直政の子直継の代に築城されたものである。天守閣内部の階段は急峻で隠し部屋もあり、戦国時代の名残を感じさせるつくりであった。
天橋立は文殊荘「松露亭」に泊まった。天橋立を正面に臨む松林の中に建つ平屋・数寄屋造りの静かな宿で、早朝、正面の海から昇る太陽には思わず手を合わせたくなる神々しさが感じられた。宿の隣にある智恩寺に朝のお参りをする地元の人が散見され、信仰が生活と密接につながっている様子が見えた。
帰りは琵琶湖の西岸を通って比叡山延暦寺へ。琵琶湖を一望するロテル・ド・比叡のテラスで昼食、京都駅の混雑にはうんざりして新幹線で仮眠しつつ帰広、駅ビルの居酒屋で一杯やって帰宅、こんな旅もまた楽しい。
カテゴリー 思い出
琵琶湖・彦根城・天橋立
全員集合
平成24年8月10日(金)
今週になって関東から次女が、県内から長女が、それぞれ子供たちを連れて帰ってきた。近畿からは大学生の長男も帰ってきて久しぶりに全員が我が家に集まった。明日はそれぞれの連れ合いも来るのでまさに全員集合である。こんなことは珍しいことで、恥ずかしながら私の還暦を祝うということで集まってくれる(集まるように強いる?)のである。子供たちも一旦家を出てしまうと、それぞれが別々に帰ってくることはあっても全員そろうことはなく、たいてい誰かが欠けている。冠婚葬祭でもなければ万障繰り合わせて集まることはないだろうから、昔からの儀式はそれなりに意味があるということだ。
今までカミさんと二人の生活だったが一挙に大人5人と孫3人になって、狭い我が家が賑やかなことである。玄関先にビニールのプール(空気まで入れてもらって998円!だったらしい)を出して水遊びをさせようと準備したが、あまり遊んでくれないという。そこで子供たちが小さい頃良く連れて行っていた川に行き、水遊びをしてやった。ひざ上までズボンをまくって川に入り、手を引いてやったらそれなりに喜んでいた。ならば次は水着を着て本格的に遊んでやろうと思ったところなんと!また腰痛が…
今回はたいしたことはなさそうだが、それにしても情けないことである。今日はコルセットをつけて診療することになってしまった。
謹賀新年
平成24年1月4日(水)
今日から診療開始である。冷えると思ったら久しぶりに雪が降っている。
正月は長女夫婦や孫たち、長男も帰っていてにぎやかだった。元旦は3歳の孫を連れて比治山神社に初詣。子供用のおみくじがあり引かせたら「末吉」、神社までの往復を「だっこ」してもらわず頑張って歩いたのはえらい。3日は地元の同級生の尽力で中学校の同窓会があり、実に40数年ぶりに郷里の同級生たちに会うことができた。時を経ていてもどこかに昔の面影が残っているもので、すぐに誰だかわかったし話し方も雰囲気も変わってないのが面白かった。恩師も出席されたが、かつての熱血教師は今も健在で、70歳代後半でもパワーにあふれ「山岳会」を作って地域の中高年に元気を与えておられる。最後に皆で校歌を歌ってお開きとなったが、次に皆に会える機会がはたしてあるのだろうかと思ったことである。
またも孫誕生!
平成23年12月9日(金)
8月に次女に男の子が生まれたが、今度は長女に2人目の女の子が生まれた。さすがに2人目となると、本人も我々夫婦も初めての子の時ほど心配はしていなかったが、予定日が近づくと早く産まれてほしいと思っていた。生まれたのは予定日を一日過ぎた、ちょうど地区医師会の忘年会の最中だったので、その場で出席した会員の人たちに披露できたのはありがたいことであった。
昨日は病院で祝い膳が供されることになっていて、病室で一人で食べるのも味気ないだろうと我々夫婦と預かっている上の子を連れて相伴することにした。個室なのでビールとワインを持ち込んで、もちろん娘は水で乾杯して祝い膳を味わった。実は上の子の時も一緒に食べたのだが、その時は食堂でアルコールもなかったので今回は持ち込んだわけである。何にしてもこれから先、目出度いことはそんなにはないだろうから、今のこの時を大いに喜び家路についたことである。
先輩の受賞
平成23年10月25日(火)
医学部の同窓会報を見ていたら、1学年上の先輩が「松岡良明賞」を受賞したという記事があった。この賞は山陽新聞社会事業団より、がん撲滅に貢献した個人または団体に年間1組与えられるという。受賞したT先輩は卒業後医局に入らず、自身の痔の手術をしてもらった病院の門を叩き、尊敬する院長のもとで30数年間、痔の手術と大腸内視鏡をひたすら行ってきたそうである。
岡山県北の農家の三男として生まれ、親族には医療関係者は一人もいなくて医師の何たるかも知らず、朝9時出勤し夕方6時に帰宅するのが当たり前と思っていたところ、尊敬する院長から「T君、臨床の医者というものは、そういうことではいけんじゃろうが」とぼそりと言われた言葉が天啓となって以後、元日以外は年中無休で仕事をしてきたそうである。
自分もT先輩と同じく農家の三男として生まれ、親族に医療関係者はいないところまでは同じで、親しみを感じるが、その後の彼のぶれない生き方と努力には頭の下がる思いがする。
学生時代、マージャン牌の正しい(美しい)ツモり方を教えてくれたT先輩、おめでとうございました。
クリニックの内装
平成23年9月27日(火)
クリニックの床とクロスの張り替えを行った。一見、それほど劣化していないように見えるので一年、また一年と延ばしていたが、これ以上は無理だと思って業者と相談して日曜日に一日で強行することにした。結局7割しかできず残りは後日になったがとりあえずはこれでよし。
開業4年足らずの平成13年(2001年)3月24日土曜日午後3時27分、マグニチュード6,7の芸予地震が発生した。瀬戸内海広島沖、安芸灘直下が震源地で、県内の最大震度6弱、広島市は震度5弱だったそうである。ちょうど外来診察中で患者さんが診察台から下りたところで大きな揺れが起こり、机にしがみついたがこのまま揺れが続いたら建物が崩壊するのではないかと実に怖かった。幸い揺れはじきにおさまり患者さんにもスタッフにも怪我はなかったが、医療器具を収納している重いスチール製の戸棚が倒れ、器具は散乱しガラスは破れ、後片づけが大変だった。困ったのが壁のクロスに破れが生じたことである。少しずつ何か所もあり全面交換するほどでもないが、気になるので業者に頼んで応急処置をしてもらったけれどそこに目がいくたびに不快であった。
震度5弱でもこの被害である。あらためて東日本大震災の規模の大きさと被害の深刻さを思ったことである。
伊勢・志摩
平成23年9月20日(火)
久しぶりの連休なので伊勢参りを兼ねて伊勢・志摩に行ってきた。伊勢参りは江戸時代より「おかげ参り」といわれ、めでたいことがあったことのお礼の意味で行われていたという。最盛期には年間450万人、当時の人口からいうと5人に1人がお参りしたほどのブームだったそうである。孫も無事に生まれたし、一度は行っておきたかったので思い立ったわけである。幸い、宿は前から泊まってみたいと思っていた志摩観光ホテルが予約できた。
伊勢神宮には外宮の豊受大神宮と内宮の皇大神宮の二つの神様が祭ってあり、御祭神は天照大神で御神体は三種の神器のひとつ、八咫鏡(やたのかがみ)である。参拝者は思ったよりもはるかに多く、特に内宮の門前町を擬したおかげ横丁は人また人で、まっすぐには歩けないくらいであった。内宮は山全体が聖地になっていて、苔むした木々の間を歩いていると、聖なる霊気に触れるような思いがする。わが国は仏教も強く根付いているが、古事記にもあるように大本は神々の国である。初詣に神社にお参りして祈るのは、我々の生活の一部になっている。その大本ともいうべき伊勢の聖地を訪ねることができたのはありがたいことであった。
いつまでも「まろ」
平成23年7月15日(金)
診察室の机の上に、カミさんの描いた愛犬「まろ」の絵を絵ハガキにして写真立てに入れているが、時々患者さんから「先生のおうちのワンちゃんですか?」と聞かれる。実は自宅のテレビの横に本物の「絵」と写真を飾っていて、つい先日もカミさんと「まろが亡くなって2年になるなあ」と話したばかりである。子供たちにとっても、一緒に暮らしていた「家族」が亡くなるのはとてもつらいことだったが、今では貴重な経験をさせてくれた「まろ」に改めて感謝している。
養老孟司氏は「死」には一人称と二人称と三人称がある、という。一人称の死とは自分が死ぬことで、二人称は親子、夫婦、兄弟などごく身近な死であり、三人称はその他である。自分の死は何も分からなくなるから関係ないし、他人のそれもほぼ関係ない。二人称の死だけが、その人にとって本物の死であるというが、まことにそのとおりである。まろは天国へ行って、今頃は輪廻転生しているかもしれない。
故郷の冬
平成22年2月4日(木)
今日からまた寒い日が続くというが、同じ広島市でも安佐南区より北は温度差が結構あるようだ。祇園大橋を渡ると一挙に気候が変わるといわれている。そこより北では雪が降っていても旧市内は降雪なしのことも多い。
故郷の笠岡も海沿いの市内は温暖でも、実家のある北の盆地は結構寒かった。冬といえば霜柱、池の氷、つららはあたりまえの風景であった。朝、通学の時に田んぼの霜柱を踏む時のザクッという感触は、心地よいものだった。つららはポキッと折ってかじりながら歩いたものである。たまに砂糖をつけて食べるとうまいものだった。今はどうなのだろう、地球温暖化で昔のようではないのだろうか。
麻呂も夢を見ていた?
平成21年12月24日(木)
夢を見るのは人間だけかと思っていたら、犬も夢を見るのだという映像をテレビで見た。床に横臥して寝ていた犬が前足・後ろ足を全力疾走しているように動かし、そのうち目を覚ましたとたんに実際に走り出して壁に激突する映像である。きっと夢の中では精一杯走っていたので、目を覚ましてもそのまま走ってしまったのだろう。
大脳皮質の発達している動物ならおしなべて夢を見たり、考えたりしているものと思われる。そういえば、亡くなった我が家の愛犬「麻呂」もいろんなことがわかっていたようだ。近所の人からも「麻呂ちゃんはかしこいですね」といつも言われていたし、実際性格の良い賢い犬だったので(親バカ?)きっと夢を見たり考えたりしていたことだろう。