カテゴリー 思い出

コロナ太り

令和2年8月7日
最近体重が過去最高に近い状態になっている。かつて30歳の頃、小豆島の病院に大学より派遣されて2年間勤務したが、この時が生涯で最も体重が増していた。なにしろ赴任していた町立病院の産婦人科医師は自分一人なので、休日も島からは出られずストレスが貯まる上に遊ぶ場所もない。他の医師たちは休日は本土へ遊びに行くが、いつお産があるかわからないので出かけられない。島内の観光場所などは1ヶ月もあれば行き尽きてしまう。わずかに夕方から病院内の有志でするテニスぐらいが気晴らしだったが、その後の酒盛りでかえってカロリーの取り過ぎになる。岡山市内への転勤が決まった時にはあわててダイエットをしたものである。太り過ぎはカッコ悪いではないか。この時は1か月ちょっとで10kg減らした。
今回のコロナ太り(本当はコロナとは関係なく単なる食べ過ぎ)にはさすがに困っているが、若い時に比べてモチベーションが湧かないのは困りものである。ダイエットをしなければと思いながら今日も美味しく晩酌をしている、嗚呼。

閑谷学校

令和2年7月27日
連休(と言っても土曜日は診療していたが)に友人夫婦と特別史跡閑谷(しずたに)学校を訪れた。閑谷学校は岡山県備前市にあり、1670年に岡山藩主池田光政によって創建された世界最古(?)の庶民のための公立学校で、備前平野の閑静な山裾にひっそり建つ日本遺産でもある。広い敷地に国宝の講堂をはじめ、学房、聖廟、神社などの建物があり、周囲を300年経っても変わらない精緻に造られた石塀が取り囲んでいる。隣には椿山があり池田光政公が祀られていて、手前には青少年教育センターも併設されている。
実はこの施設を学生時代使用したことがあったのだが、50年近く前とほとんど変わらぬ佇まいに感嘆したことである。大学男声合唱団の夏の合宿で滞在は1週間ぐらいだったと思うが、昔はこんな風にしていたのかという貴重な体験だった。周囲に何もないので気が散らないし、大きな声を出しても迷惑にならない。その分、1週間も経つともやもやして来て街の明かりが恋しくなってくる。昔の人はこれも鍛練と思って勉学に励んだのだろう。夏は涼しいが冬はさぞ寒かったことと思う。久しぶりにいいものを見せてもらった。

梅雨の晴れ間

令和2年7月17日
九州から中国地方にかけての豪雨が去り、久しぶりの好天である。梅雨明けというのか梅雨の晴れ間というのか、いずれにしても晴れた日は気分が良い。「梅雨の晴れ間」という言葉が好きなのは、大学時代に男声合唱団で同名の曲を歌っていたからである。
「梅雨の晴れ間」は北原白秋が26歳の時に著した第2詩集「思い出」の末尾に「柳川風俗詩」として48の詩編がありその中の1編である。白秋の生家は江戸時代から続く商家だったが、大火により酒蔵が全焼し没落した。現在、柳川市に「北原白秋記念館、北原白秋生家」として保存されていて先年訪れたが、かつての富商家の様子がしのばれてしみじみしたものを感じた。
「梅雨の晴れ間」という詩を覚えているのも、故多田武彦氏が作曲し男声合唱曲としてずっと歌い続けられてきたからである。詩と音楽の分野で感性の優れた人同士の作品は、時を超えて歌い継がれるものなのだろう。
「梅雨の晴れ間」
廻せ 廻せ 水ぐるま けふの午(ひる)から忠信が 隈取赤いしゃっ面に
足どりかろく 手もかろく 狐六法踏みゆかむ 花道の下水ぐるま…
廻せ 廻せ 水ぐるま 雨に濡れたる古むしろ 円天井のその屋根に
青い空透き日光の 七宝のごときらきらと 化粧部屋にも笑ふなり
廻せ 廻せ 水ぐるま 梅雨の晴れ間の一日を せめて楽しく浮かれよと
廻り舞台も滑るなり 水を汲み出せ その下の葱の畑のたまり水
廻せ 廻せ 水ぐるま だんだら幕の黒と赤 すこしかかげてなつかしく
旅の女形もさし覗く 水を汲み出せ 平土間の田舎芝居の韮畑
廻せ 廻せ 水ぐるま はやも昼から忠信が 紅隈とったしゃっ面に
足どりかろく手もかろく 狐六法踏みゆかむ 花道の下水ぐるま

懐かしい映像

令和2年5月22日
コロナ騒ぎのおかげでYou-Tubeを見る機会が増えた。最近ハマっているのは吉田拓郎の映像と歌である。高校時代から大学時代にかけて熱心に聞き、自分でもギターを弾いて歌っていた。「旅の宿」「結婚しようよ」「マークⅡ」「おやじの歌」「今日までそして明日から」などはコピーして弾いて歌ったものだ。吉田拓郎の曲はほとんど全部聴いていたし、楽譜もそろえていた。人気が陰り始めてからは、雌伏の時があったようだが心境の変化があったのか、再び我々オールドファンの前に表れるようになった。それらの映像をYou-Tubeで見ることができるのは実にありがたい。広島時代の思い出の場所を中村雅俊と一緒に巡る旅の放送も見ることができた。
はしだのりひこの「沈黙」という歌が一瞬ラジオの深夜放送で流れたことがあり、いい曲だなと気にいっていたがヒットしなかった。でも妙に覚えていてまた聞いてみたいものだと思ってネットで調べたがみつからなかった。最近、誰かが「沈黙」をアップしてくれたので聞くことができた。覚えていたイメージとは少し違っていたが懐かしいものだった。You-Tubeは実に便利でかつてなら「沈黙」を聴くためには、古いレコードを置いている店を回って探さなければならなかったのが、簡単に見つかりすぐに聴ける。ネットのない世界は考えられなくなったが、わずか30年ぐらいのことで驚くしかない。

第22回オープンカンファランス

令和2年2月14日
広島市民病院産婦人科主催の勉強会が行われた。若い医師から部長まで6人の演者が広島市民病院の産婦人科手術の現況を紹介した。今回は腹腔鏡手術からロボット支援下手術までの低侵襲手術を中心に情報開示された。
昨年の手術件数は1509件でそのうち婦人科手術は1039件、さらに婦人科手術のうち腹腔鏡手術は552件、53%に増えている。手術器具や方法の改良などでより安全で侵襲の少ない手術ができるようになっている。なによりうれしかったのは児玉部長の「広島市民病院は24時間対応しているので、緊急手術が若い医師にもできるように研鑽を積ませている。特に腹腔鏡の手術はどの分野に進もうが覚えておくべき技術なので、積極的にやらせるようにしている。」という言葉であった。
振り返って自分が岩国国立病院(現・岩国医療センター)に研修医でいた頃、上司の部長はどんどん手術をやらせてくれた。部長は手術が上手かったがわざと手術室に入らず、控室にいて時々見に来て難しそうならすぐに対処できるようにしてくれていた。おかげで安心して手術することができて、1年間でたくさん症例を重ねることができた。
広島市民病院の児玉部長のこの姿勢は母校の医局の伝統である。この良き伝統が続くことを切に願っている。

読書について

令和2年1月17日
読書についての初めての記憶は小学校へ上がる前、6歳と4歳上の兄たちが学校へ行ったあとヒマにまかせて兄たちが購読していた小学5年生とか6年生などの雑誌を読んでいたことである。その中で「弓鳴り為朝」という物語が好きで、弓のうまい主人公の少年がイノシシを仕留めその肉を焼いて食べるシーンは実に旨そうで、思わず喉が鳴ったものである。その時にイノシシのことを「山クジラ」というのだと知った。小学校へ上がってからは図書室の本を借りまくっていたので、特別にまとめて借りられる特権を得ていた。それ以来活字中毒というか、読書は空気や水と同じで当たり前のもので、特に意識して読書をするのではなく知らぬ間に読んでいるという状態であった。
ところが最近、本屋で面白そうな本を買っても読んでしまう前にどんどん新しいものを見つけて買ってしまうので積読(つんどく)が増えてきている。漫画も読まねばならないし週刊誌も月刊誌もDanchuなどの食べ物の雑誌も読みたいので正直、時間がないのである。TVも見たいしゲームもやりたい、フルートも吹きたい、アルコールも欠かせない、どうしたらいいのだろう。

宇品の花火大会

令和元年8月2日
7月最後の土曜日に例年通り宇品港1万トンバース沖で花火大会が行われた。いつもは用事があったり面倒だったりで行かなかったのだが、今年はちょうど夕食も済んでほろ酔い気分でもあり、久しぶりに行ってみた。宇品港までは自宅から真南に2キロちょっとの距離であるが、周辺は人が多すぎるので海岸通りから見ることにした。1万発の花火が準備されていてこれを1時間であげるわけだが、夏の夜空を彩る音と光は百花繚乱の装いを呈していてこれほど素晴らしいものはあるまい。大きく広がる光と腹に響く音、火薬のにおい煙など五感を刺激して昔の夏の記憶をよみがえらせてくれる。学生時代から聞いていた男声合唱組曲「雪と花火」のなかの「花火」という曲がずっと頭の中を流れていた。北原白秋の東京景物詩のなかの「花火」に多田武彦が曲を付けたものである。

花火があがる 銀と緑の孔雀玉… パッとしだれてちりかかる
紺青の夜の薄あかり ほんにゆかしい歌麿の 舟のけしきにちりかかる
花火が消ゆる 薄紫の孔雀玉…紅くとろけてちりかかる
Tron…Tonton…Tron…Tonton 色とにほひがちりかかる
両国橋の水と空とにちりかかる
花火があがる 薄い光と汐風に 義理と情けの孔雀玉…涙しとしとちりかかる
涙しとしと爪弾きの 歌のこころにちりかかる
団扇片手のうしろつき つんとすませどあのように 舟のへさきにちりかかる
花火があがる 銀と緑の孔雀玉…パッとかなしくちりかかる
紺青の夜に大河に 夏の帽子にちりかかる
アイスクリームひえびえと ふくむ手つきにちりかかる
わかいこころの孔雀玉 ええなんとせう 消えかかる

分娩を止めた病院

令和元年7月19日
非常に残念なことであるが、開業前に6年間勤めていた中電病院が今年の4月からお産を一切やめた。産科病棟もなくなり妊娠に伴う入院はできなくなった。平成3年に医局人事で中電病院に来て、お産の多いことと外来の目の回るような忙しさに驚いたことを思い出す。当時は医師は部長と自分の2人だけで、年間600人のお産とたくさんの手術をこなしていた。夜の当直(産直)は2日に1回で、土日もお産や回診でほとんどつぶれる。あまりの激務に見かねた院長が医師を1人増やしてくれたので一息ついたが、長く続けるのは無理かもしれないと思っていた。昼間忙しいのは何ともないが、夜にお産で起こされ無事に生まれるまでの緊張とそれに伴う睡眠不足、翌日もやはり忙しい日々が続くのは、歳をとるほどこたえてくる。
自分は45歳になる直前に開業してお産から離れたけれど、現場の医師たちは大変だろうと思っていたし、しんどいお産を安全確実にしてくれて本当にありがたいと思っていた。このたび産婦人科の医師が足りないためにお産を止めざるを得なくなったことは実に残念ではあるけれど、最も悔しい思いをしているのは現場の医師と助産師たちスタッフだろう。お産をする施設は簡単にできるわけでなく、中電病院のようなすばらしい施設と人的伝統を作るためには長い努力・研鑽が必要であり、ふたたびお産を始めるのは至難の業である。世の流れとはいえ諸行無常である。

なつかしいもの

平成31年3月22日(金)
学生時代に一時所属していた男声合唱団で歌った「子どものうた」をふと思い出して、そのときの楽譜を探してみた。当時は謄写版で自分たちで刷って使ったもので、押入れの奥の段ボール箱に入れていたはずだと探してみた。小学生たちが書いた詩に曲を付けたもので、子供たちの本音が見えて定期演奏会の面白いステージになった。たとえば「たいそう」は「たいそうのじかん せんせいがシャツいちまいで むねをはりなさいというちゃった シャツにおちちがうつった ふくれたうえにもうひとつ ちっちゃこいまるこいもんがついとった」これをラジオ体操第1のピアノ演奏に合わせて歌うのである。「お金持ちのお客さん」では「お金持ちのお客さんがきやはった お母ちゃんはとっきゅうでええふくに着がえて そうでございますねえとすましたはる お母ちゃん京都べん使いよし むりして東京べんつこたらおかしいわ お客さんも京都の人やんか」他にもたくさんなつかしい楽譜がでてきて当時のことを思い出して、これらを捨てなくてよかったと思った次第である。

「山本七平の思想」

平成31年3月1日
表題は自分とほぼ同じ年代のフリージャーナリスト、東谷暁氏の著書である。山本七平といってもピンと来ないだろうが、1970年に「日本人とユダヤ人」という本がベストセラーとなり、そのユニークな内容に多くの知識人たちが賛同し、話題となった。その後も山本氏は、日本人独特の考え方はどこからきてどうなっていくのかをその著作を通じて表し、考えてきた。そしてその思想は死後25年以上経っていても人々に影響を与えている。山本氏のわずか20年の執筆活動がなぜこれほどインパクトがあったのかを東谷氏は検証し、時系列を追って確かめている。
実は自分も当時、山本七平氏の著作に惹かれ、出版されるとすぐ手当たり次第読んでいたので、同じ年代の東谷氏もきっと同じだったんだろうと想像するわけである。東谷氏は山本七平のユニークな考え方のルーツはどこにあるのかを考え、3代目キリスト教徒であったことが日本を客観視できた原因ではないかと記している。「空気の研究」は日本人は「空気」に流され判断を誤りやすいことを警告し、なぜそうなるのかを考えた名著である。東谷氏の著書により当時の熱狂が思い出されて懐かしいことであった。