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盆休み

令和7年8月22日
今年の夏の暑さは異常で、今年の盆休みはどこかに出かけようという意欲もなくゴロゴロしていた。以前は「休みしか行けないところを」と考えて、ミシュランなどを参考にして食事の店を予約し、そのうえで宿を予約して行ったものだ(予約の順序が逆のようだがこれでいいのだ)。
2,017年は仙台から東北に出かけ、松島・瑞巌寺・平泉・中尊寺などを訪れた。もちろん鮨屋の予約も忘れずにした。2,018年は鎌倉・箱根に行き、鶴岡八幡宮、箱根の森美術館などを楽しんだ。2,020年は四国から高知に行き、祖谷のかずら橋や仁淀ブルーを見ることができた。2,023年は大分県立美術館で行われていた養老孟司氏の「虫展」を見て湯布院に行き、翌日は佐賀県の武雄温泉に泊まり県立熊本美術館の「ホキ美術館」を鑑賞してきた。
もう少し涼しくなれば出かけてもいいかと思うのだが、この猛暑だとおっくうになる。年のせいもあるのだろうが、旅にも美食にも意欲的だったころが懐かしい。

結婚43周年記念日

令和7年5月16日
結婚43周年を記念して移転改装した「おお井」にカミさんと行った。毎年どこかの店を選んで行くのだが、今年はなじみの鮨屋で美味しい料理と鮨をつまんで、大将と話しながら祝ったのである。去年は料理屋「増田屋」、一昨年は鮨「良月」、令和4,3,2年はコロナのため家で祝った。令和元年は今はなくなった「桜梅桃杏(おうばいとうり)」、平成30年は今はない「ちまき鮨」、思い起こせば鮨屋と和食の店が多い。「良月」以外はコースではなく好きに注文できるので、腹具合にあった量になるのがいい。
店の名を覚えているのは「食物日記」を書いていたからである。昼は印象の残った店と料理を、夜は外食した店と内容をほぼ書いていたのでわかったのである。ついでに値段も書いているので昔と今の比較ができる。ずいぶん高くなった店もあればあまり変わらない店もある。大箱の店より家族経営かそれに近い店の方が好きである。それにしてもいろんな店に行ったものである。5月だけでも、もう夜5日外食している。だから太るのであるが仕方ない。いつ外食どころか食べられなくなるかわからないのだから。

八天堂でバーベキュー

令和7年5月9日
連休に松本に嫁いでいる次女が子供を連れて帰ってきたので、息子夫婦、長女夫婦とその子供たち全員で広島空港のそばにある八天堂でバーべキューをすることにした。飲みもの以外は全部そろえてくれるので楽であるが、野菜を切ったり肉を焼いたり切り分けたり結構大変である。総勢14人で行ったが予約できたのは午後1時30分だったので、それまで八天堂のパン作りを孫たちに体験させた。自分で焼いたパンを喜んで食べるのを見るのはうれしいものだ。牛肉の塊3個、鶏肉の塊沢山、ソーセージ、野菜色々を焼きながら飲み食いするのは楽しいものだ。孫たちが一堂に会することはめったのないことなので、このような機会の恵まれたのは実に幸運なことだった。
次女たちは2泊して松本に帰っていったが、長女の子供たちも我が家へ来て次女の子供たちと遊んでくれた。まことに仲良きことはいいことだとしみじみ思った。思い出に残るいい連休になった。

春が来た

令和7年3月21日
昨日は春分の日、暖かさが少しずつ増してきて今日はもう春のようである。梅は満開でもう散り始め、桜の開花が待ち遠しい。
先日、チケットを頂いたので崇徳中学高等学校グリークラブの定期演奏会に行ってみた。崇徳高校の男声合唱団は以前から有名で、素晴らしい演奏を聞かせてくれていた。以前にも一度聴きに行ったことがあるが、今回は女声も入っているのに驚いた。女声があるほうが音の広がりはいいのだが、男声だけの荒々しさ、繊細さはわからなくなる。でも、女声だけのステージ、生徒企画ステージ、広島オルフェン賛助ステージなど盛りだくさんの企画で充分楽しませてもらった。圧巻は卒業生合同ステージ(男声合唱)の組曲「月光とピエロ」だった。この曲を初めて知ったのは40年以上前の大学合唱団に所属していた時で、セカンドテナーで歌ったのである。作曲者清水修氏の重厚なハーモニーは学生たちの心を捉え、今でもステージに載せられている。
久しぶりに生の男声合唱を聞き、春のいいひと時を過ごせた。

「ガッキイファイター」は今何処に

令和7年2月27日
「そして殺人者は野に放たれる」「買ってはいけないは嘘である」「脳梗塞日誌」などの著者でギャンブラー、日垣隆氏のメルマガ「ガッキイファイター」を購読していた。氏の本質を見抜く鋭い発言や文章が面白く、何年にもわたって愛読していた。
氏の主催する英語講座にも参加して2カ月間毎日何時間も費やしていた。さらに3か月の追加講座も行ったが、残念ながら毎日使わないとできないことが分かった。いい経験になったが、メルマガはずっと愛読していた。氏は2,015年、グアム島でのゴルフ合宿中に脳梗塞を発症し、再起不能かと思われたが、信じられないくらいのリハビリに励み、不自由ながらメルマガを続け、世界中を単独で回りカジノで大金を稼ぎ、再婚していた妻と子供を大切にして日々を送っていた。2,019年にメルマガの日本版は止めると宣言し、今から1年間は無料で会員に届けるが、それを過ぎれば海外版だけにすると言った。最後のメルマガは2,020年7月21日号で、以来日本での配信は終わった。世界では50ヵ国に配信しているというが、以後どうなっているのか全く分からない。
先日、当時のメルマガを読み返してみたがやはり面白く、コロナ騒動の始まった2,020年の初めから、「マスクは意味ないし、インフルの方がより怖い、三密を避ける意味がない、関係者の事なかれ主義が騒ぎを大きくしているだけだ」と言っていたが4年経った今では氏の言ったとおりになっている。世界中を回り貴重な知見や意見を教えてくれた氏は、今どうしているのか知りたいと思う。

雪の朝

令和7年2月6日
日本列島に寒波が押し寄せて各地で降雪の被害が出ているという。幸いなことに瀬戸内海沿岸は降雪もほとんどなくありがたいと思っていた。それでも今朝は雪が降った跡があり、大事をとってバスで出勤した。
私は岡山県小田郡北川村(現笠岡市)出身なので雪が降るのは珍しく、子供の頃はうっすらと雪が積もっただけで大喜び、竹で作ったスキーを履いて遊んだものだった。葉っぱに積もった雪をコップに入れて砂糖をかけて食べたり、サッカリン(古い!)の空き瓶に砂糖水を入れてアイスキャンディーを作ろうとしたり、つららをかじったり、冬の遊びは楽しかった。家の周りはほとんど田畑なので朝は霜柱ができている。それを踏むとジャッジャッという音がして気持ちがいい。池に張った氷をとったり、割れなければスケートのように滑ったり冬の遊びも面白い。道は舗装されていないので雨の日は靴が泥だらけになるし、学校に行っても暖房がないので寒いばっかりだったが、それなりに楽しい日々だった。
バスに乗っているときにふと当時のことを思い出して懐かしくなった。こんなことを思うようになるのは先が短いということなのかな。

時の流れ

令和6年12月20日
今年もあとわずかになった。明日が冬至だという。ブログの「うまいもん」の所を読み返してみると、当時通っていたけれどなくなった店が多いのに気づく。それだけ年月が経ったということだろうが、時の流れを感じてしまう。
広島の軽井沢といわれた「ファーム・ノラ」も今は営業していないようだ。店主夫妻はお元気なのだろうか。休日に訪れると、バイクの集団や犬を連れた客が大勢いて、森の中の素朴なレストランを満喫できたのに。そういえば結婚式なども行われていたようで、娘の知り合いもそこで式を挙げたという。
豊平の奥にあった高橋邦弘名人のそばの店「達磨」も今はないが、その技を引き継いだ「宮島達磨」ができたのはありがたい。串焼きの店「小太郎」も閉店して5年になる。他にも「ちまき鮨」「桜梅桃杏(おうばいとうり)」「とりきん佐藤」「千代春」「若竹邑」「独楽」「中屋」「おくど」「鯛の鯛」「なかもと」「かねまさ別館」「マンハッタン」「ステーキハウス三木」「KAZUの店」「千成」など多くは高齢のため閉店したところだが他の理由もあるのだろう。
お世話になったこれらの店を思い返すと、月日の流れを感じてしまう。

冬の思い出

令和6年12月13日
厳冬の頃になると時々思い出すのが餅つきである。家は養鶏業が主体の農家だったので、小学時代から田植え、稲刈りなど手伝っていた。米は自分の家が必要なだけ作っていたが一部はもち米も植えていて、冬になるとそのもち米を使って餅つきをするのが恒例だった。当時は台所には「かまど」があり、マキを燃やして煮炊きをしていた。冬休みになると一家総出の餅つきが始まる。かまどで羽釜の湯を沸かし蒸籠に入れたもち米を蒸す。2段重ねで蒸した蒸籠のもち米を、物置にしまっていた石臼を取り出して入れて杵でつくわけである。それを丸めるのは子供たちの仕事、白い丸餅、餡子入り餅、大豆を入れた豆餅、正月用の鏡餅、それらを板の上に並べて冷ましてから餅箱に入れる。
正月前についた餅は1か月でなくなるので、1月の終わりごろに再度餅つきをする。田舎では旧正月の方が主体で、1月1日は新正月と言って、旧正月の方が正月気分だった。さらに2月の終わりごろに3回目の餅つきをする。冬の間はいつでも餅が食べられるわけである。つけ焼きにすればおやつにもなるし、餅は優れた食べ物であった。今でも餅は好きだけれど少しで腹一杯になるので、当時の食欲が懐かしい。何しろ8歳の元旦には雑煮の丸餅(田舎の餅は結構大きい)をおかわりして8個食べたのだから。

広島市長公室

令和6年11月29日
先日、市役所の市長公室で広島市公衆衛生事業功労者の表彰式が行われ、どういうわけか私も選ばれて出席した。広島市の医師7名、歯科医師3名、薬剤師2名の12人(欠席2名)が集まった。市長公室は秘書室に続く広い部屋で調度もしっかりしていて、思わずスマホに写したがさすがだと思った。松井市長の挨拶に続いて一人一人に表彰状と記念品が授与され、市議会の母谷議長より祝辞があり閉会、記念撮影が行われて表彰式は終了した。
医師会の仕事で市役所に通ったことはあったが、市長公室のある階に行ったのは初めてだし公室も初めてで、さすがに政令指定市は立派なものだと思った。松井市長には毎年、平和祈念式典であいさつをされる姿をテレビで伺っているが直にお会いするのは初めてで、人をそらさぬ優れた人物だと感じた。いずれにしてもこのような機会は二度とないだろうから、貴重な体験をさせてもらったと思ったことだった。

久しぶりのWEB講演会

令和6年11月22日
愛知医大産婦人科の篠原康一特任教授による講演があった。広島市臨床産婦人科医会の講演会は今回で306回になる。年に5回として60年近く続く講演会である。コロナ禍までは20年くらい世話係をさせていただいていたが、コロナ感染を機会に役職を引かせてもらったので気楽に講演だけを聴けるようになった。
今回は、「子宮筋腫・内膜症患者の術前・術後におけるレルゴリスクの立ち位置」と題して、手術前後の薬の使い分けについて、篠原氏が治療した症例を基にしての講演だった。興味深い話が次々に出て、退屈することなく聞けて良かった。篠原氏は高知出身で高知医大に40歳までいて、愛知に行き今活躍しているそうだが、高知と言えば初めて一人医長で県立安芸病院に赴任したころを思い出す。研修病院ではたくさんの手術は行っていたが、必ず上級医師がいたが単独で帝王切開をしたことはなかった。
高知県の安芸市にある県立病院は産婦人科の定員は3人なのに一人で行かされた。前医と引継ぎが済み、前医が岡山へ帰った翌日の日曜日、病棟へ行ったら妊婦さんの胎児心音が下がっている。帝王切開するしかないが、知り合いの医師はいない。たまたま居合わせた他科の若い医師に前立ち頼み、自分で脊椎麻酔をして無事に帝王切開を終えることができたが、非常に緊張していたことを思い出す。お産の多い病院で、年間480のお産があったが産婦人科医師は自分ひとり、おまけに小児科はなく、週1回だけ高知県立中央病院から小児科医師が健診に来るだけという状況だった。1年半勤務したが前置胎盤を含め無事に勤めることができたことは、その後の大きな宝になったと思う。高知というとそのことを思い出す。