令和2年4月17日
3月の終わりにはまだ武漢コロナウイルスの感染者は少なかったが、この2週間で広島県で100人を超えた。東京や大阪などの大都市の感染者の増加を他人事のように見ていたが、少し遅れただけで同じように後を追っている。都市の規模に応じた感染者数になるのだろう。そうならないように3密(集まらない、近づかない、閉塞空間を避ける…集・近・閉=シュウ・キン・ペイ)についての注意を呼びかけているが、生きていくためにはある程度動かないとダメなので難しい。経済に与える影響は計り知れず、まさに国難である。阪神淡路大震災も東日本大震災も国民が力を合わせて乗り切ってきたが、今回の武漢コロナウイルスは先が見えないうえに、力を合わせること自体が難しいのである。人は集まってあるいは接触しあって作業し力が出せるのに、互いに近寄ることができなければ力の出しようがない。
広島市内の人の数もめっきり減り、流川は閑古鳥が鳴いている。灯はついていても人がいないのは寒々しい風景である。フラワーフェスティバルをはじめすべての人が集まるイベントは無くなった。こうなった原因が地震や台風などの天災ならあきらめもつくだろうが、人災なら恨みは骨髄に達するだろう。
カテゴリー 日誌
灯の消えた街
不妊症について
令和2年4月10日
初婚年齢が上がったので不妊の率もやや増えているが、今のような不妊治療のない時代からカップルの1~2割は不妊であった。原因は男性の場合は精子の数や運動率が悪いこと、女性の場合は最も多いのは卵管の通過障害と卵のピックアップがうまくいかないことである。排卵障害もあるけれど、ポイントは卵管である。さらに年齢が上がるほど妊娠しにくくなる。他にもいろいろな要素はあるが、まず卵管を調べることが大切である。
以前は卵管通過障害に対しては、卵管通気と卵管通水が行われていた。卵管通気とは子宮口よりCO2などの気体を送りこんでふさがった卵管を通そうとすることで、卵管通水は生理的食塩水を使う。通気法は今では行われなくなったが、通水は有効なので行われている。当院でも行っているが、できるだけ痛みを少なく素早くできるようにしている。それでも通過障害が改善しなければ体外受精(IVF)のできる施設に紹介することになる。
生物学はまだまだ不明なことが多く、不妊に関しても原因不明が5割もあるといわれている。不妊専門クリニックで行われているIVFは本来は卵管通過障害の場合に、卵を採りだして体外で授精させ、子宮に戻すことによって妊娠を期待する、いわば卵管の替わりを人工的に行うことである。卵や精子を扱って授精させることは神の領域と考え、IVF黎明期には院内で倫理委員会を開いて体外受精の適応かどうかを判断したうえで行っていた。現在は卵管に異常がなくても妊娠しない場合にはIVFを行っているようであるが、今から思えば隔世の感がある。
人工妊娠中絶術と胼胝(たこ)
令和2年4月2日
人工妊娠中絶術を行う方法に、従来からの鉗子と鈍匙による方法と吸引による方法がある。前者は熟練者にとっては安全で確実な方法であり、後者は比較的やりやすく血液を吸引するのできれいにできる。自分は40年近く前から前者の方法で行っているが、短時間で確実にできるので愛用している。麻酔は短時間で確実に効いて早く覚めるようにしているが、術後は3時間程度休んでから帰宅してもらう。昼から食事もとれるし翌日から仕事もできるようになる。
産婦人科医の基本はお産を安全・確実にできるように修練することと、人工妊娠中絶術を確実に行うことだと大学医局に入った時に教わった。子宮筋腫、子宮癌、卵巣腫瘍、子宮外妊娠などの手術や不妊治療がきちんとできるようになることも必須であるけれど、基本は妊娠にかかわることである。勤務医の時は主にお産に携わっていたが、開業してからは人工妊娠中絶術を行っている。鉗子を使うので、鉗子をつかむ親指と薬指指にいつの間にか胼胝(たこ)ができてしまった。妊娠はうれしいことで女性は産みたいのはあたりまえだけれど、一方でどうしても産めないこともある。その狭間で悩む人にとってはつらいけれど仕方ないことだと思う。右手にできた胼胝(たこ)にはそういう思いが詰まっている。
桜のない夜桜花見
令和2年3月27日
武漢コロナウイルスの報道が連日行われていて、この世の終わりのような雰囲気であるが、広島県を始め中国地方のウイルス感染数はほとんど増えていない。鳥取県、島根県はゼロである。
全国で桜の開花前言がされるようになったが、今週の木曜日から日曜日にかけて雨とのことで、今しかないと思い水曜日の夜、近くの公園で夜桜花見をすることにした。たまたま次女が孫3人を連れて帰っていたので、鮨などを用意して出かけた。少し肌寒かったがいつもの公園で敷物を敷いてビール、冷酒、子供はお茶、美味しくいただいたが肝心の桜は2分咲きくらいかほとんど花見とは言えない状態だった。比治山下の公園は自宅から近く桜もきれいで、そのわりに人が少なく穴場なので、毎年花見と称して酒を飲むのだが、今年は早すぎたのかもしれない。街灯が一つ切れていたので少し暗かったのは残念だったが、今年も花見ができたのはありがたいことだった。
照明器具の一新
令和2年3月21日
クリニックの照明を蛍光灯からLEDに替えた(ごく一部を除いて)。全部でほぼ40台の照明装置の取り換え工事には1日かかったが、院内は前より格段に明るくなった。待合室は明るくなり過ぎと感じるくらいでLEDはさすがである。
23年前に開業した当初は蛍光灯しかなく、当然寿命が来れば点かなくなる。照明器具1台に蛍光灯は2~3本ついているので合計すれば100本以上になる。これを取り替えるのが大変だった。脚立に登り天井の照明器具の覆いを外し、長い直管を付け替えるのは結構難しく正直、イヤだったが自分でやるしかない。今まで何回取り替えたことだろう。スタッフの「先生、どこそこの蛍光灯が切れています」という言葉を聞くのは本当にストレスだった。最近、蛍光灯を取り替えた時、器具も劣化していたのだろうかバネの具合が悪く、時間と労力がかかり大変だった。今回、LEDに替えたのはこれが原因である。もう脚立に登って無理な姿勢で蛍光灯を取り替えなくてもすむのは実にありがたいことである。
なくなった店
令和2年3月13日
開業して20年以上袋町周辺で昼食を食べていると、気にいっていたけれどなくなった店も多い。まずそごう10階にあった「伊勢定」、東京にあるうなぎの名店であるが広島から撤退してしまった。ここのうなぎは焼きかげんもたれの味も絶妙で、毎月1回は行っていたが突然なくなった。国際ホテル東側にあった「千成」、小料理屋で主人は大正生まれで高齢のため店を閉めたが、ここのうな重は値段も手ごろでたれが好みだったので、毎週通っていた。クリニックすぐそばにあった「れんが亭」、とんかつの店で気にいって通っていたが、ある時から「菊屋」に行くようになって足が遠のいた頃閉店した。理由はわからない。旧広テレビル近くにあった「五津味」、ここのステーキ丼はちょうどよい焼き加減なので通っていたが健康上の理由(?)で閉店した。備長炭串焼きの店「小太郎」、この店のシソ巻き定食は実に旨いので、亭主のキャラと相まって20年間ほぼ毎週通っていたが、残念ながら昨年12月末で閉店した。
流川周辺では和食の「栄助」、いつ行っても満足できる料理屋であったが平成23年3月に閉店した。もっと通っておけばよかったと後悔。洋ラウンジ風の店「マンハッタン」、医会の会合などでよく行っていたが、リーゾナブルで使い勝手がいいので個人的にもよく行っていた。ここも突然無くなった。ふぐ料理の「かねまさ本館」、新天地駐輪場の南側にあり、あの名店「かねまさ別館」の親戚筋(こちらが本家?)の経営らしく、別館と違って養殖のふぐなので値段もリーゾナブルでよく行っていた。ここは「キヨ・マサ」と店名をかえて高級料理店になった。他にもあるがここに書いた店はどれも記憶に残る自分にとっての名店であった。
新型コロナウイルス
令和2年3月7日
新型コロナウイルスの蔓延が止まらない。広島県でもついに感染者が確認された。世界中の国がパンデミックになるのを防ぐ対策を講じているが、そばにいるだけで感染するウイルスを防ぐことは難しいだろう。社会生活をしていれば、電車やバスに乗ることは必要だし、買い物にも行かなければならない。会合は必ずあるし自粛するにも限度があるだろう。かつてスペイン風邪が全世界に蔓延して多数の死者を出したが、今回の場合はそうなることはないし、ワクチンも作られるだろう。インフルエンザは毎年流行して亡くなる人も必ずいるけれど、それほど騒がなくなっている。新型コロナウイルスもそうなっていくことと思われる。
生物はウイルスと共に生きてきた。ウイルスを取り入れることによって環境に適応してきた。適応できない個体・種族は滅び、生き残ったものが今存在しているわけである。かつては恐竜が君臨していたが現代ではヒトが環境に適応して全世界にはびこり、君臨している。ヒトは道具を作り環境を自分たちに合うように作り変え、快適に生きられるようにした。その歴史から考えれば、新型コロナウイルスはヒトにとって猫パンチにすぎない。
久しぶりの京都
令和2年2月28日
前から予定していたので連休に久しぶりに京都へ行った。いつもなら人があふれかえっているのに、20年以上前の京都のように普通に動くことができた。新型コロナウイルスのため中国・韓国からの旅行者がいないうえに国内旅行者も少ないからだろうか、どこも空いていてゆったり観光することができた。
市バス・地下鉄・嵐山鉄道などすべて座れたし、食事する店や居酒屋などの予約もすんなりできて、こうでなければと思った次第である。二条城もゆっくり見られたし渡月橋を渡って天龍寺の拝観から竹林を抜ける散策も楽しめた。いつもなら渡月橋の前の横断歩道を渡ることさえ人が多すぎて時間がかかるというので、竹林の小路散策などもう二度とできないと思っていた。前回行って気にいった先斗町の「酒亭ばんから」は団体が入っていて残念ながら予約できなかったが、食べログでほぼ同じ点数の「味どころしん」で旨い肴に舌鼓を打った。
新幹線の往復切符についている京都駅近くの「水族館」「鉄道博物館」も行くことができたし、「辻留」の弁当は帰宅して美味しくいただけたし、久しぶりの快適な京都旅だった。
文芸春秋のオヤジ欄
令和2年2月21日
月刊誌文芸春秋のオヤジとオフクロ欄は、著名人のそれぞれの親に対する思い出が語られていて毎号面白く読んでいる。最新号に医師で作家の久坂部羊氏の父親に対する思いが描かれていて思わず引き込まれてしまうと共に笑ってしまった。氏の父親は「父は医者のくせに医療が嫌いで、こむずかしい医学の知識を信用していなかった」とあるように医療の限界を知ったうえで麻酔科の医療を行っていたようである。若い頃の父親は糖尿病で厳密な食事療法を行っていたが一向に良くならないため、業を煮やして食事制限は一切止めて血糖値も測らないことにした。そのせいでのちに血糖値が700を超え、インシュリンの自己注射をせざるを得なくなったが、甘いものは食べ放題、タバコも吸い放題になった。
モットーは「無為自然」と「足るを知る」で65歳の定年以後は一切仕事をせず自由気ままな毎日を送っていた。父親は超高齢まで生きた場合の悲惨さを熟知していたので、長生きし過ぎたら困ると思っていたらしい。85歳の時に前立腺がんの診断を受けたとき、治療さえしなければ2~3年で死ねるので「これで長生きせんですみますな」と真顔で喜び、診断した医師を唖然とさせた。そして言葉どおりに病院にもいかず87歳で天寿を全うした。久坂部氏のサポートがあればこそだろうが、実に納得できる生き方を身を持って示していて、今のオーバーな医療を笑っているようで面白かった。
第22回オープンカンファランス
令和2年2月14日
広島市民病院産婦人科主催の勉強会が行われた。若い医師から部長まで6人の演者が広島市民病院の産婦人科手術の現況を紹介した。今回は腹腔鏡手術からロボット支援下手術までの低侵襲手術を中心に情報開示された。
昨年の手術件数は1509件でそのうち婦人科手術は1039件、さらに婦人科手術のうち腹腔鏡手術は552件、53%に増えている。手術器具や方法の改良などでより安全で侵襲の少ない手術ができるようになっている。なによりうれしかったのは児玉部長の「広島市民病院は24時間対応しているので、緊急手術が若い医師にもできるように研鑽を積ませている。特に腹腔鏡の手術はどの分野に進もうが覚えておくべき技術なので、積極的にやらせるようにしている。」という言葉であった。
振り返って自分が岩国国立病院(現・岩国医療センター)に研修医でいた頃、上司の部長はどんどん手術をやらせてくれた。部長は手術が上手かったがわざと手術室に入らず、控室にいて時々見に来て難しそうならすぐに対処できるようにしてくれていた。おかげで安心して手術することができて、1年間でたくさん症例を重ねることができた。
広島市民病院の児玉部長のこの姿勢は母校の医局の伝統である。この良き伝統が続くことを切に願っている。