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モネ展

令和6年3月8日
明石に用事があり土曜日に一泊、ついでに大阪中之島美術館で開催されている「モネ展」に行ってみた。さすがに光の芸術家と言われているだけあって、水面にきらめく光の絵が印象的だった。代表作の睡蓮の絵はモネの家の庭に作った池に咲く睡蓮を描いたもので、これなら出かけなくても描けるだろうと思ったものである。
毎度のことながら大阪のような都会に行くと人の多さとせわしない動きに疲れてしまう。地下鉄も人であふれかえっているし、阪急梅田百貨店のレストランでウナギを食べ、食材を仕入れようと地下に降りたが混雑は半端でなかった。広島のデパートに比べて規模と人の数が全然違う。新幹線で広島に帰って駅についてほっとして、やはり自分にはこれくらいの規模の街が落ち着くのだなと思ったことである。

永遠の都ローマ展

零把6年2月15日
福岡市美術館で開催されている「ローマ展」に行ってきた。世界で最も古い美術館の一つ「カピトリーノ美術館」所蔵のコレクションが展示されていて興味深いものだった。
美術館は福岡市民の憩いの場所、大堀公園内にあり会場に入るとまず目にするのが「カピトリーノの牝狼」の複製像である。ローマの建国はトロイ戦争(紀元前1,250年ころ)まで遡るがギリシャのオデュッセウスによるトロイの木馬の計でトロイが陥落した際脱出したトロイの王族の子孫によるとされている。双子のロムルスとレムスは狼の乳で育てられ、ロムルスがローマ建国の祖と言われている。他にもカラバッジョの「洗礼者ヨハネ」も展示されていて見ごたえがあった。
昼は館内レストラン・プルヌス(ニューオータニ九州)でパスタセット、公園内の日本庭園などを散策、博多阪急デパートで食材を仕入れて帰宅、充分リフレッシュできた一日だった。

一年をふり返って

令和5年12月28日
今年の診療もあと一日になった。明日で最後、30日から正月休みに入る。
この一年は市内の産婦人科クリニックが2施設閉院したこともあり、新患が増えた。ほぼ5割増しであるが、いずれは徐々に収まってくるのではないかと思う。8月から息子の泰之が月に一回見学および手伝いに参加するようになった。現在呉労災病院勤務なので病院に迷惑をかけないように言っている。
同じビルの内科のU先生が今日で辞められる。朝挨拶にみえられたが、26年以上お世話になって本当に寂しいことである。世代交代の波が押し寄せているが、身近な人たちに起こるのを見ると実感として胸にこたえる。
いずれにせよ元気なうちは続けたいと思っているので来年もよろしくお願いします。

年の瀬

令和5年12月21日
月日の経つのは早いもので今年もあとわずかになった。ついこの間新年を迎えたばかりなのに、もう1年が終わろうとしている。この調子では何もできないうちに人生が終わってしまうかもしれない。それはそれで仕方ないけれど。
思えば田舎の農家に生まれて畑仕事や田植え、稲刈りなどを手伝っていた自分が、いつの間にか広島の街中でクリニックを開き、この年まで仕事をしているのは非常に珍しいことではないだろうか。いろんな人と知り合えて、様々な経験を重ねて今があるわけである。子供たちも成長して孫も生まれた。すべて一通り終えて、後はまさに余生である。以前から「人生僅か五十年」だから、50歳を過ぎたら後は余生だと思っていたが、今こそ本当の意味でそうなっている。こういった思いがわいてくるのも「年の瀬」のなせるわざだろうか。

久しぶりの研修会出席

令和5年12月15日
コロナ禍の3年間、研修会はほぼズームで参加していたが、今回の研修会は、臨時総会も兼ねているので久しぶりに出席した。午後6時30分開会なので、診療終了後で間に合うかどうか不安だった。医師会館は駅の北側にあり、夕方は特に混雑する。おまけにタクシーは雨のせいもあってなかなかつかまらない。中央通りまで全速で歩いて、運よく客待ちのタクシーを見つけてやっと間に合った。
今回の議題は、急逝された前会長の後任の新会長の選任と、会則の一部変更である。雨のせいもありズームもおこなっているためか、出席者はほぼ関係者ばかりで机を一人一脚独占し快適に聞くことができた。研修会は某大手製薬会社の製品の宣伝みたいな内容だったので少し興ざめしたが、それだけ力を入れているのだろう。
いずれにせよ会合で知り合いと言葉を交わすだけでも気分が変わって、やはり以前のような会合は必要なのだと思ったことである。

世代交代

令和5年12月8日
同じビルで内科を開業されていたU先生が今年限りで引退される。その送別食事会が行われた。U先生はこのビルができた平成3年にT耳鼻科と同時に開業され、私が平成9年に同じビルで開業した時にはすでにご盛業であった。その後もいろいろなことでお世話になったし、自身の診察もしていただいた。少し前から「そろそろ辞めようかと思っている」と聞いてはいたが、現実になるとやはり寂しいことである。
最近自分より少し上の世代の人たちが、閉院したり辞めたりするのを見るにつけ「もうそんな世代になったのか」と思う今日この頃である。ビルのオーナーのT先生は数年前に後継者に診療を託して引退された。ビルに本部のあるS薬局グループも、息子さんに社長を譲り会長となっている。U先生も次のM先生に診療を託している。残るは自分だけであるが、まだまだやるつもりではいてもどうなるかは神のみぞ知るである。U先生へのご挨拶の最後に高校時代に好きだった漢詩を詠んで締めくくった。先生が遠くに行かれるわけではないが、そんな心境だった。

元二の安西に使ひするを送る(王維)

渭城の朝雨 軽塵を浥し(うるおし)
客舎青青 柳色新たなり
君に勧む更に尽くせ一杯の酒
西のかた陽関を出づれば故人なからん

同門会支部総会

令和5年12月1日(金)
昨年に続き今年も岡山大学医学部産婦人科同門会(広島支部)が開催された。コロナ禍の3年間は中止していたが、昨年から復活したわけである。普段は顔を合わせることのない諸先輩や後輩たちと歓談できるのはうれしいものである。名簿を見ると全員で29名、出席者は21名で若い多くの人は広島市民病院勤務である。最年長はD先生で、大学同門会名簿でも1ページ目に載っている(1ページが12名で年齢順に27ページまである)が、矍鑠とされ安倍晋三元首相の父親、安倍晋太郎氏との交友などを披歴されお元気な姿を拝見した。
自分が広島中電病院に赴任した33年前はまだ若造で、怖い先輩方がずらりと揃っていて同門会では小さくなっていたが、今では我々が長老になろうとしている。月日の経つのは早いもので、こうして時代は過ぎてゆくのだと改めて思った次第である。そういえばもう12月、ついこの間新年を祝ったばかりなのに…
盛年不重来(若い時は二度とやってはこない。)
一日難再晨(一日に朝が二度やってはこない。)
及時当勉励(できる時には楽しみ遊ぶべきである、)
歳月不待人(歳月はひとをまってはくれないのだから。)
陶淵明

ChatGPTの応用

令和5年11月24日
様々な情報をインプットして学習させておいた記憶媒体を利用して、的確な答えを出してくれるChatGPTが話題を呼んでいるが、この仕組みを応用し小型化が進んでいけば、様々な分野で応用できるのではないだろうか。
例えば高齢になって配偶者に先立たれた人の悲しみは深いものがある。相方のいない寂しさは計り知れないことだろう。そこで、会話ができるように進化したChatGPTに生前の配偶者の情報をインプットしておけば、日常会話ができる。さらにその会話もインプットされるので、いつも新鮮な内容の会話ができる。これは残された人には大きな慰めになるだろう。なにしろインプットする情報が多いほど、生前の配偶者(あるいは大切な人)と今までと同じ会話ができるのだから。
AIは今後進化を続けて今では考えられないようなことができるようになるだろう。何しろ我々が子供の頃、現在のようなスマホを一人一人が持って、世界中とつながることができるようになるなんて、思いもよらないことだったから。未来がどうなっていくのか知りたいものだ。

中区4支部忘年会

令和5年11月18日
コロナ禍のため会合がほとんどなくなっていたけれど、4年ぶりに地区忘年会が開かれた。中区第4支部は医療施設が50あまり狭い地域にひしめきあっているが、普段はほとんど顔を合わせることがない。久しぶりに会うと懐かしい気持ちになる。クリニックを始めて27年目になるが、若い人が増えて自分より年上の先生は少なくなってしまった。クリニックをやめたり世代交代を計る先生など、時代は変わって行くのだなと思った次第である。
出席者は20数人だったが、一人一人が近況などスピーチしてなかなか面白かった。中には「初めて参加した時は先輩ばかりで何をしゃべっていいかわからず、小さくなっていたけれど、10年経ってみると自分が中堅どころになっているのがうれしい」という人もいて、まさに自分も同じだったと思った次第である。やはりこういった会合がないとつまらない。コロナが5類感染症に移行してよかった。もっと早く移行すべきだったと思う。

元安会

令和5年10月20日
中電病院OB会の名称を「元安会」といって、元院長のM先生が20数年前に始めた会である。現会長は2代目のF先生であるが、世話人のひとりに指名されたため毎年1回開かれる会合に出席していた。コロナのために3年間会が開かれなかったが、今年からまず人数制限して始めることになった。結局、OBが世話人を含めて20人、病院から6人が参加するこじんまりとした会になった。
久しぶりに会うOBの先生方は初めは老けて見えたけれど話しているうちに昔の若々しさが戻ってきて、懐かしく当時の思い出を語り合うことができた。なにしろ中電病院を辞めて開業したのは26年以上前である。自分を含め皆も年を取るはずである。現院長の話では7年先には中電病院は駅北にできる県病院を中心にした新基幹病院に吸収されることになるそうである。手術件数が減ったことや分娩を辞めたことなどで収入が減ったことも原因とのことで、OBとしては非常に残念なことである。かつて勤めていた時は年間600から700件のお産をしていたが、ある時からお産をやめてしまったのである。安全で安定したお産ができる施設を作るまでには先輩たちの大変な時間と努力が必要だったはずである。それを失くしてしまうとは…
「元安会」がいつまで続くかわからないが発展性はないかもしれない。寂しいことであるが。