カテゴリー 本

福岡伸一著「世界は分けてもわからない」

平成22年2月9日(火)
分子生物学者の福岡伸一氏の、動的平衡状態にあるのが生物である、という著書について以前紹介した。近刊の「世界は分けてもわからない」も科学者の様々な思いが綴られており、興味深い。
科学者は少年のような好奇心を持ち、緻密な頭脳と研究で未知を既知に変えていく。そういう人物は魅力的であり、そうでなければいい仕事はできないと思われる。硬直した考え方をする人たちは、どの分野でもいるが、それぞれの分野でその発展を阻害するのである。

中島義道著「ウイーン家族」

平成22年1月21日(木)
哲学者、中島義道氏の小説「ウイーン家族」を読んだ。中島氏の初小説だそうであるが、今までの著書から想像すると実話としか思えない。
すさまじい夫婦の葛藤があますところなく描写されており、その原因は彼の両親の関係にあることが強く示唆されてくる。それにしても中島氏は実に生きていきにくい人だ。そして、彼の妻も彼の母親も同じように世間では生きていきにくい人たちである。彼の思考過程は共感できる部分もあるが、きっと毎日がしんどいことと思われる。
人はそれぞれいろんな考え方を持っていると思うが、ある出来事に対して自分では想像できないような考え方をする人もいるのだと、改めて思う。

養老孟司氏の本

平成21年4月25日(土)
このところ養老孟司にはまっている。以前「バカの壁」がベストセラーになった頃にはあまり興味がなかったのだが、色々読んでみるとものの見方がユニークだけれど腑に落ちて思わず「そうなんだ」とうなずいてしまう。
著者は東大で解剖を30年にわたってやりながら思索してきたが、解剖学の手法と緻密な頭脳がこの考え方を生んだのだろう。ヒトを脳と身体に分けてとらえると同時に、人間の世界を脳が創り出した環境=近代化と自然=田舎に対比してみるという考え方は、そう言われてみればさまざまの人の世の現象に説明をつけることができる真理だと言ってもいいのではなかろうか。
すぐれた人の考えを知ることができることは、じつに幸せなことである。

福岡伸一著「生物と無生物の間」

平成20年11月22日(土)
分子生物学者の福岡伸一氏の「生物と無生物のあいだ」という著書は「いのち」とは何かを示唆していて興味深い。著者自身が携わってきた最先端の研究を語りながら、世界中の優れた研究者達のエピソードなどを紹介しつつ、「生命とは何か」を考察している。
「生命とは自己複製を行うシステムである」これが、20世紀の生命科学が到達したひとつの答えである。が、著者はさらに「命とは動的平衡の流れ」である」と定義付ける。
生物を生物たらしめている設計図はDNAだが、生物を維持しているたんぱく質などは分子単位で常に入れ替わっているという。昨日と今日では生物というシステムは同じでも中身は変わっているのである。ちょうど砂浜がその形を変えないけれど砂の一粒一粒は常に入れ替わっているように。
これはマクロでは都市とまったく同じではないか。都市というシステムは同じでもビルは少しずつ建て替えられるし、中の人たちも時間とともに入れ替わる。それでも広島の街は街であり続ける。戦争で壊滅しても再び街を創りあげ機能し続けている。先ほどの「生命」の定義である「複製と動的平衡の流れ」とぴったりと合う。

中野孝次著「ガン日記」に思う

平成20年11月17日(月)
中野孝次氏の「ガン日記」は、著者が食道がんになったことが判った2004年2月8日から3月18日までの日記とその後のことを奥様と編集者が記録した著書で、氏の没後出版された。初めは懇意にしている医者から余命1年であることを告げられ、治療を勧められたが、病気の性質上なにもせず経過を見ることにした。他の医者からも入院治療を勧められたが、頑として受け入れなかった。ところが日々体調が悪くなるなかでしかたなく入院することを決め、放射線治療を受けた。1ヵ月半の治療後退院したが体調は良くならず、程なく亡くなられた。
頑として治療をしなかったことは実に共感したが、日々弱っていく中で医者の言うことを聞いて仕方なく治療入院したことがなんともお気の毒であった。こういう場合、なぜ医者はステレオタイプに治療しか考えないのだろうか。中野氏が入院できたのは治療を医者の言うとおりにすることが前提であり、そうでなければ入院できなかったのである。手術、放射線、抗がん剤、どれも過酷な副作用がある。なのに治療の有無に関わらずがんによる死亡数は変わらない。そうであれば、できるだけおだやかに残った日々を過ごせるようにすることが、医師に課せられた使命ではなかろうか。それを実践している医師もいると聞く。
こういう記録を読むたびにいつも同じ事を考えてしまう。

武田邦彦著「偽善コロジー」

平成20年8月23日(土)
文部科学省の専門委員でもあり大学教授でもある武田邦彦氏の「偽善エコロジー」(幻灯舎新書)によれば、家庭で出た生ゴミを堆肥として再利用するのは危険であるという。また、「リサイクル法案」は非常にまやかしであり、納税者に負担を強いるだけで一部の業者、天下りの官僚のみが利益を得ているとんでも法案であるそうだ。家庭で細かく分別しているゴミはほとんどリサイクルされておらず、むだなお金が消えているだけで、効率からいえばゴミは金属とそれ以外に分けるだけでいいという。
これらはすべて、きちんとしたデータに基づいたもので大いに納得した。それでも一旦決まったら、利権がある限りこのままムダが続いていくのだろう。まるで健康診断(ドックを含む)が有用だと信じられて行われ続けていることと同じようで、どの分野にも似たようなことはあるものだと思った次第である。

岡田正彦著「がん検診の大罪」

平成20年7月30日(水)
新潟大学医学部教授の岡田正彦氏による「がん検診の大罪」という著書がある。この中で氏は、がん、高血圧、糖尿病など死因の最も多い病気について、正しい統計的手法を用いて、現在行われている検診、治療がほとんど無意味であると提言している。
内容は正確で反論のしようがなく、逆にそれらの検診や治療を勧める側に分がないと思われる。これらのことは以前より慶応大学放射線科講師の近藤誠氏が縷々述べていることと一致しており、まじめに医療に取り組んでいる医師たちの中にも賛同者は増えていると感じられる。斯く言う私もその一人である。
医師の仕事は患者さんを癒すことであり、わずかに寿命が延びたとしても、それが耐え難い苦痛の末に得られるものであれば、すべてを患者さんに話して治療を受けるかどうか自分で選んでもらうべきものであろう。少なくとも自分について言えば、検診は受けたくないし、むだな治療もしたくない。
根拠のないメタボ健診についても言及しており、どうしてこんな無意味な、医療機関だけが利するようなことをするのか理解しかねる。間違いがないのは、医者にかかるのは体の調子が悪い時だけにして、薬もできるだけ使わないようにすることである。

食に関するエッセイ

平成20年4月21日(月)
食に関するエッセイでは、池波正太郎、壇一雄、立原正秋などの作品はいつ読んでも面白い。古くは獅子文六の著書もなかなか味わいがある。これらの人生の先達に共通するのは、食べることは人生そのものであると看破し、実践していることである。したがって大いにこだわり、大いに食している。
最近のものでは嵐山光三郎の江戸前鮨に関するエッセイや「頬っぺた落しう、うまい!」という著書も秀逸である。さらに評論家福田和也著「悪女の美食術」は、福田氏がいかに食と真剣に向き合ってきたか鬼気迫る趣があって、日頃テレビで見かける氏の風貌からは想像しがたいことである。ここまで徹底することはとても出来ないが、気持ちは共感できる。いずれにせよ一食たりともおろそかにしたくないと思っているのだが、難しいことである。

中島義道著「うるさい日本の私」

平成19年9月24日(月)
哲学者中島義道氏の「うるさい日本の私」という著書がある。彼はウイーン大学での留学を終えて帰国した途端にさまざまな場所での放送音に悩まされるようになる。曰く、「列車が入ります、危険ですので白線の内側まで下がってください」とか、ATMの機械では「毎度ありがとうございます…操作ボタンを押してください…ありがとうございました」など、欧米では皆無のおせっかい放送が耳について仕方ないというのである。さらに、道路わきには「暴力追放宣言都市」だとか「交通安全宣言都市」などなんの意味があるのかといったポスターがべたべた貼られているの見るにつけ、これらの意味があると思えないものに違和感を覚えるのであった。
以来十数年、改善すべく孤軍奮闘してきたけれど日本ではいっこうにこれらのおせっかい放送やおせっかいポスターがなくならないのである。ついに、同様の違和感を持つ哲学者加賀野井秀一氏と共著で「うるさい日本を哲学する」という本を出すに至ったのである。

山口瞳著「行きつけの店」

平成19年7月18日(水)
作家の山口瞳氏が亡くなって10年以上経つが依然として根強い人気がある。彼の著書で最も好きなのは「行きつけの店」で、贔屓の店を中心にして氏の人間関係、付き合いをエッセイ風に書いて味わい深い作品である。高倉健が主演した「居酒屋兆次」のモデルになった店もこの中にあった。「縁」を大切にする作者の心意気があらわれていて、どれも一度は行ってみたいと思う店ばかりである。
先ごろ金沢に行った時も作品の中にあった「つる幸」をまず予約し、その後代替わりしているとの情報から先代の弟子の「つる屋」に予約を変更した経緯がある。倉敷、長崎にも作品に書かれた店があり機会があれば行ってみたいものである。
最近、山口瞳夫人が「瞳さん」という本を出した。これは最も身近な妻の立場から見た作家の姿が描かれており興味深い。そういえば壇一雄夫人の話を聞いて沢木耕太郎が書いた「壇」という作品もあった。いずれも作家の等身大の姿をありのままに表していて魅力的であるが、生きているときには書けないのだろうと思う。