カテゴリー 思い出

なつかしいもの

平成31年3月22日(金)
学生時代に一時所属していた男声合唱団で歌った「子どものうた」をふと思い出して、そのときの楽譜を探してみた。当時は謄写版で自分たちで刷って使ったもので、押入れの奥の段ボール箱に入れていたはずだと探してみた。小学生たちが書いた詩に曲を付けたもので、子供たちの本音が見えて定期演奏会の面白いステージになった。たとえば「たいそう」は「たいそうのじかん せんせいがシャツいちまいで むねをはりなさいというちゃった シャツにおちちがうつった ふくれたうえにもうひとつ ちっちゃこいまるこいもんがついとった」これをラジオ体操第1のピアノ演奏に合わせて歌うのである。「お金持ちのお客さん」では「お金持ちのお客さんがきやはった お母ちゃんはとっきゅうでええふくに着がえて そうでございますねえとすましたはる お母ちゃん京都べん使いよし むりして東京べんつこたらおかしいわ お客さんも京都の人やんか」他にもたくさんなつかしい楽譜がでてきて当時のことを思い出して、これらを捨てなくてよかったと思った次第である。

「山本七平の思想」

平成31年3月1日
表題は自分とほぼ同じ年代のフリージャーナリスト、東谷暁氏の著書である。山本七平といってもピンと来ないだろうが、1970年に「日本人とユダヤ人」という本がベストセラーとなり、そのユニークな内容に多くの知識人たちが賛同し、話題となった。その後も山本氏は、日本人独特の考え方はどこからきてどうなっていくのかをその著作を通じて表し、考えてきた。そしてその思想は死後25年以上経っていても人々に影響を与えている。山本氏のわずか20年の執筆活動がなぜこれほどインパクトがあったのかを東谷氏は検証し、時系列を追って確かめている。
実は自分も当時、山本七平氏の著作に惹かれ、出版されるとすぐ手当たり次第読んでいたので、同じ年代の東谷氏もきっと同じだったんだろうと想像するわけである。東谷氏は山本七平のユニークな考え方のルーツはどこにあるのかを考え、3代目キリスト教徒であったことが日本を客観視できた原因ではないかと記している。「空気の研究」は日本人は「空気」に流され判断を誤りやすいことを警告し、なぜそうなるのかを考えた名著である。東谷氏の著書により当時の熱狂が思い出されて懐かしいことであった。

伊武雅刀のCD

平成31年2月14日
YMOスネークマンショーのCDを聴いていたら伊武雅刀のCDを聴きたくなった。「伊武のすべて」のタイトルの2枚組を持っているので久しぶりに聴いてみた。20代のころ初めて聞いたスネークマンショー「咲坂と桃内のごきげんいかが123」での小林克也との掛け合いの面白さに惹かれ伊武雅刀のファンになったが、氏は声優よりも俳優としての地位を固めていい味を出している。声優としては「宇宙戦艦ヤマト」のデスラー総統、「こち亀」では大原部長、テレビ番組の「空から日本を見てみよう」ではくもじいを担当しているが、声の良さと何とも言えない味はぴか一である。
CDのトップは1983年に発売された「子供たちを責めないで」で、サミー・デーヴィスJrの同名の曲を日本語に吹き替えたものであるが、そのままでは面白くないということで、当時の若手の放送作家に作詞してもらいラップ風にして評判を得たものである。冒頭の歌詞は「私は子供が嫌いです。子供は幼稚で礼儀知らずで気分屋で~甘やかすとつけあがり放ったらかすと悪のりする…」なので初めはシャレのわからない人たちから「本当に子供が嫌いなのか」と言われたらしいが、よく聞くとそうでないことがわかる。一度聞いたら忘れられない名ラップであるが、この若手放送作家の名前は秋元康だった。さすがであるが当時いろいろやって楽しんでいる空気が伝わってくる楽しいCDである。

タバコについて

平成30年12月7日
禁煙して18年にもなるとタバコを吸いたいと思うことはない。ただ街角の喫煙コーナーに集まって煙草を吸っている人たちを見るとさらし者みたいで気の毒になる。かつてはアルコールとタバコは大人になったしるしであり、一人前の男として認められた気がして嗜むのがあたりまえだと思っていた。昔は今ほどタバコの害毒が言われていなかったし、値段も安かった。ハイライトが80円、マイルドセブンが150円の時代があり、徐々に値上げをしてタバコをやめた時が確か230円だったと思う。それが今では430円(メビウス)になった上に喫煙者は吸う場所がなくなっている。かつては駅のホーム、新幹線車内、航空機内、病院の待合、どこでもタバコが吸えた。タバコを吸いながら診察する医者もいた。それが今ではタバコの煙は健康な人に害毒になると言って罪人あつかいである。吸わない人にとっては不快なだけなので場所をわきまえて喫煙するぶんには問題ない。今のタバコ排斥の風潮はちょっとやり過ぎのように感じる。
吸っていた頃を振り返るとなんといっても旨いのは食後の一服だった。銘柄もハイライト、ピース(缶入り)を経てマイルドセブンに落ち着いた。キセルやパイプ、葉巻も試したことがあるがすぐに飽きた。タバコはアルコールとも相性が良かったし、若い頃は麻雀・パチンコの時の必需品だった。考えてみれば体にいいことは一つもないし、周囲の人にずいぶん迷惑をかけたことだろう。今となっては止めてよかったと思うけれど。

休み明け

平成30年8月17日
お盆休みが終わり8月16日から診療開始したが、木曜日なので午前中だけである。例年、休み明けは患者さんが多いけれど、今年は特に多くて終了時間が大幅に遅れた。休みモードから仕事モードへの変換が急激だったので、いささか疲れたが心地よい疲れである。
今年は孫たちも帰ってこないので、かねてより訪れてみたかった鎌倉・箱根へ行ってきた。鎌倉は紫陽花の季節がいいのだろうが、まとまった休みが今しか取れないから仕方ない。養老孟司先生のお住まいを拝見することは望むべくもないので、鶴岡八幡宮などをベタに観光した。隠れ家的鮨屋「和さび」が予約できたのはラッキーだった。結局、横浜に1泊、箱根に2泊したが、箱根はレンタカーで回ってみた。例年正月に行われる箱根駅伝のコースも通ってみたがテレビで見ている風景そのままなのが面白い。圧巻だったのは「彫刻の森」で、特に「密着」という作品にはしばらく足を止めて鑑賞した。残念だったのは海抜1327メートルの箱根駒ケ岳にロープウエイで登って富士山を見ようと思ったのだけれど、雲と霧で真っ白になり何も見えなかったことである。宿は居心地が良くて温泉も食事も良く、久しぶりのリフレッシュできる休暇であった。

猛暑

平成30年7月26日(木)
大雨の後は一転して猛暑の日々が続いている。災害復興のために日中、汗を流している人の中には、熱中症で救急搬送されている人もいると報道されている。天はまじめに生きている人たちになぜこんな過酷な試練を与えるのか。普通に外を歩いているだけで汗が噴き出てくるような時に、自宅に住めなくなって避難所で過ごすのは、心身ともに疲れることと思う。一日も早く復興することを切に願う。
例年、7月下旬から8月初めの頃が暑さのピークで、盆を過ぎれば少し凌ぎやすくなってくる。自分が子供の頃はクーラーはなく、団扇と扇風機だけだったけれどこんなに暑くなかったように思う。田舎なので家も少なく田んぼや畑、小川や裏山など緑に囲まれていたからだろうか。昼食の後は大人たちは開け離した風の通る家の中で昼寝をして、子供たちは川や池に泳ぎに行ってその後昼寝したものである。夜は蚊取り線香をたいて台場で涼み、窓や戸を開けて蚊帳をつって寝る。明かりをつけると虫が飛んでくるので暗くしておかねばならない。早寝早起きになるわけだ。朝は地区ごとに集まってラジオ体操、涼しいうちにスイカを裏の畑から採ってきて井戸に入れておくと、ちょうどいいおやつになる。振り返ってみれば、物のない時代ではあったけれど贅沢なことだったと改めて思う。

追悼

平成30年6月1日
大学入学以降、故郷を離れて何十年になるが、歳を重ねると一層懐かしいものである。そのふるさとの本家の当主である従兄が亡くなった。3年半前、父が亡くなったころに発覚した病と闘っていたが、はかなくなってしまった。小さい頃から同じ敷地内で育ち、父が分家してからも兄弟のように親しんでいた3歳年上の従兄とは色々な思い出がある。戦後の高度経済成長の時代と共に育ってきた自分としては、郷里に帰るとその頃のことがまざまざと思い出されて、その時代を共有できる従兄夫婦と話すのは楽しみだった。 病が発覚してからはできるだけ父の墓参りも兼ねて、誰も住んでいない郷里の家に帰るようにした。そして、従兄に会って色々な話をした。たいてい他愛もないことだけれど、その時間がうれしいことだった。治療の手立てのなくなった4月の末に、夫人の心づくしの御膳を囲んでの会話と食事が最後の昼餐になってしまった。従兄は最後まで弱音を吐かず、昔から全く変わらないおおらかな自由な人がらのまま逝った。故郷が少し遠のいたような気がする。  合掌

「帰れないヨッパライたちへ」

平成30年3月15日(木)
表題は学生時代に「帰ってきたヨッパライ」が大ヒットし、フォークの神様といわれ、その後精神科医になりロンドンに留学した後、北山医院を開設、その後九州大学の教授になるなど活躍を続けている北山修氏の著書である。思い起こせば2002年にザ・フォーク・クルセダースの新結成記念・解散音楽会が東京で開かれ、其の後大阪でも追加で行われた時に行くことができて、二度と見ることのできない貴重な演奏会を楽しむことができた。その際に北山修氏の歳を重ねて一層魅力を増した姿を見て、充実した人生を送ってきたのだろうなと感心したものである。
表題の本は、北山氏がどうして精神分析医になったのか、フォークルとして一世を風靡した後どのような人生を歩んできたのかを述べながら、同時に精神分析を通して我々の心のあり方についての見解を示し、これからどのように進んでいけばいいのかなどを、「表と裏」「二人だけの関係と三角関係」「嫉妬」などのキーワードで真摯に語っている。
氏は作詞家としても優れていて、心に響く詩をたくさん書いている。はるか昔、学生時代には「きたやまおさむ詩集」は座右の銘とまではいかないが、よく読み返していたものである。やはりいつになっても氏は我々のあこがれとなるスターなのだと思ったことである。

めぐり合わせ

平成30年2月23日(金)
車に関しては不思議と買った車種が製造中止になることが多かった。初めは研修医になってすぐに買った中古車で三菱ギャラン・ラムダ、金がないので頭金なしで24回分割払いだった。次に買ったのは自分にとって初めての新車、日産ブルーバード・マキシマV6ターボだったが5年で故障したので次は日産マキシマ3000㏄にしたが、これも5年で調子が悪くなった。以上の車種はいずれも早いうちに製造中止になっている。次は製造中止にならないことをディーラーに確かめて買ったトヨタ・アバロンだが、なんと買って半年もたたないうちに製造中止になった。いい車だっただけに残念だったが長く快適に乗ることができた。
買ったとたんに製造中止になるということは、人気がない車種だということになる。今はクラウンに乗っているのでまさか製造中止になることはないだろうと思うが、レクサスにとってかわられるかもしれない。車以外にもテニスの会は参加して数年で発展的解消になったし、以前所属していた尺八の会は主催者が亡くなって会そのものの活動がなくなっている。こういうのは単なるめぐり合わせなのかと考えることがある。どうなのだろうか。

減り続ける本屋さん

平成29年12月15日
だいぶ前から新聞の書評などで興味を持った本は、アマゾンで買うようになった。本屋に行く時間が限られている上に、せっかく行っても目的の本がないこともあるが、アマゾンなら数日で確実に届くからである。今から20年前、開業した頃はすぐ近くに2軒の本屋があり(丸善と金正堂)それぞれ特徴があって昼休みによく立ち寄っていた。どこにどんな本があるか把握していたので変わった部分だけ確認すればよく、新たな本を見つけるのは簡単だった。基本的には丸善に行くが、金正堂には店主の意向を示したようなコーナーがあり、自分の趣味とも合っていて新刊を楽しみにしていた。近くに開業している本好きの先生ともよく顔を合わせ、情報交換したものである。
それから10年位の間に2軒ともなくなってしまった上に、別の店(積善館)も移転したため気軽に立ち寄れなくなった。丸善は天満屋のあったビルに復活したがここも昼休みに立ち寄るには少し距離がある。アマゾンは古書を含め何でもそろうが、やはり本というものは実際に手に取ってみないとわからないものである。立ち読みの楽しさは独特のものがあるので町の本屋さん減るのは困る。町の本屋さんが存続できるような制度・価格操作はできないものだろうか。