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旅行中止

令和2年11月13日
秋は紅葉の季節、特に京都は紅葉の名所に事欠かない。今は外国人旅行者はほとんどいないのでチャンスとばかり、連休には京都に行こうと思った。紅葉を見るのが一番だが、京都大学博物館に一度行ってみたかったので申し込んだらOKだった。駅近くのホテルも予約できたし、夕食の店も確保できた。さらに帰りに京都伊勢丹で菱岩の弁当も予約できたので楽しみだった。帰宅して菱岩の弁当を肴に酒を飲むのは、旅行の楽しみをいっそう深めてくれる。実は以前菱岩まで行って弁当を買ったことがあるぐらいファンだった。
ところが最近、全国でコロナの感染が急増しているとの報道が流され、毎日のように危機感をあおっている。広島市でもまた感染者が増え始めている。ほとんどの人は軽症か無症状であるが。いずれにせよこの状況になったら京都旅行はやめざるを得ない。残念だがすべてキャンセルした。コロナは5類感染症にすべきではなかろうか。

 

 

 

深まる秋

令和2年11月6日
日中はそうでもないが朝夕は冷えこむようになり、自転車通勤の服装も冬支度になった。まことに季節は巡りくるもので、1年なんてあっという間である。過去の診療日誌、11月の項を読んでみると毎年、同じようなことを書いている。講演会や同門会、会食など最も多いのが11月で、話題に事欠かなかった。12月は忘年会はあるものの、会合はむしろ少ないのが最近の傾向だった。今年は武漢コロナのせいで一変している。講演会、同門会、会食はほぼゼロ、欧米では再び移動禁止措置がとられ始めている。日本はまだ抑制が効いているようで感染者、重症者共に少ない。早く元の状態に戻ってほしいが無理なようである。コロナ前と後で世界が変わるのではないか。それでも季節は巡り、過ぎて行く。これからは師走、正月、大寒、それから春と日々変わって行くことだろう。せめて季節を楽しんで行きたいものである。

開院23周年

令和2年9月11日
昨日の朝、クリニックに着いて日付のゴム印を変えた時に気付いた「そういえば23年前のこの日に開院したんだ」と。早速診療日誌を見たら、5年前に「開院18周年」の文章があった。つい最近「開院〇〇年」の文章を書いたように思っていたが、あれからもう5年経っていた。まことに月日の経つのは早いものだ。「仰げば尊し」の歌詞に「思えばいと疾(と)し この年月」というところがあるがまさにその通りである。5年どころか23年も一炊の夢で、月日が矢のように過ぎて行く。同時に記憶力が落ちてくるので余計にそう感じるのだろう。
尺八を置いて替わりに始めたフルートでは、高音部の音出しがなかなかスムーズにいかない。これも呼吸による代謝亢進を図りながら同時に行う指と頭の訓練だと思ってやっているが、始めてみると面白く時が経つのを忘れるくらいである。「アルルの女第2組曲」のメヌエットが吹けるようになりたいと思っているのだが。診療はもちろん、いろんなことをこれからもマイペースでやって行きたいものである。

夏の終わりに

令和2年8月28日
日中はまだまだ暑いが、朝夕はしのぎやすくなってきた。律儀なもので四季は毎年、きちんと巡ってくる。それに合わせて服装を始め生活様式を変えて凌いできたわけだが、昔の生活と比べると格段に良くなっているのは間違いない。明治、大正、昭和初期の頃の文学や随筆などを読んでみると、その頃の日常生活がおぼろげながら浮かんでくる。自分が農家出身で田舎の生活が身についていたので想像できるわけである。洗濯機・冷蔵庫・テレビはいずれも小学校時代以降に買って、それまではごはんはカマドで焚き、洗濯はたらいで行い、風呂は五右衛門風呂、トイレはぽっとん便所、これが村では当たり前の状態だった。水は井戸から汲み夏は戸をあけ放ち蚊帳をつり、冬は風呂を沸かした後の炭を使ったこたつで暖を取った。現代はその頃の生活からは考えられないくらい快適な時代になった。今から昔の生活に戻れと言われても無理である。ほぼ全員が高性能パソコン(スマホ)を持つようになるなど想像もつかなかった。こんな時代がいつまでも続くとは思えないとふと考えてしまう季節の変わり目である。

仁淀ブル―

令和2年8月21日
Go to travelを利用して四国に行った。高知県の山岳観光のメッカ、工石山を背景にした高知市から車で30分の「オーベルジュ土佐山」が予約できたからである。車で出発、瀬戸大橋を渡り香川県の道の駅で讃岐うどん、前から行ってみたいと思っていた徳島県の祖谷のかずら橋へ。奥深い渓谷なので人は少ないだろうと思っていたが、結構多かった。それでも15分ぐらい待って渡ったが、普段なら3時間待ちとのこと。3密を避けるために行ったのだが、同じように考えている人が多いとみえた。その後高知市を素通りして土佐山へ。狭い道を抜けると水の上に浮かぶような宿が現れた。部屋数は14とコテージが3でゆったりしている。温泉は露天風呂もあり、湯船から空を見ると星が全天を覆い尽くしているようで、これほどの星を見たのは初めてである。
翌日は清流仁淀川をさかのぼって「にこ淵」へ。道が狭く車のすれ違いのできないところが多くてひやひやしたが、早めに出発したおかげで何とか駐車場所もあり「にこ淵」を見ることができた。その時はブル―ではなくグリーンだったが光の加減できれいなブルーになるという。その後は松山市のうなぎ店「つしま」へ。ここは以前から松山に行った時はよく行くうなぎ屋で自分の好みである。どこにも寄らずしまなみ海道を渡って広島へ着いたのは夕方、四国全県を通過したことになる。時節柄とはいえ気分転換になるいい旅だった。

行きつけの店

令和2年8月12日
ここ10年くらいは、夕食に行った店を記録している。元来、そんなことを記録するような性格ではなかったのだが、新たに尺八を習い始めた師匠の教えを毎回書き留めるノートを作ったのが始まりだった。A4ノートに1回のレッスン(稽古と言う)の内容を1ページにまとめていた。そのノートの余白に夕食(飲みも含めて)に誰とどこに行ったかをメモすることにしたのである。初めの頃は結構記載漏れがあったが、途中からはきちんと書くようにしたので、会食の詳しい記録になっている。初めの頃はホテルなどの会食を除いて、和食の店が多かった。小料理屋・居酒屋も結構通っていて、いくつもの店がなくなっていったのも見た。通っているうちにいつの間にか落ち着ける「行きつけの店」ができてくる。味もそうだが、やはり店主との相性が良くないと通う気になれない。そうして「行きつけ」になった店も、やがて店主の高齢化や他の理由で閉店になったり、店の料理人が新しく店を始めてそこへも通うようになったり色々変化がある。
「行きつけの店」のカウンターに座ると楽しい気持ちになり、今日はどのような組み合わせで食事をしようかと揉み手をする心境になる。自分にとってアルコールは料理を美味しく食べるために欠かせないが、元来アルコールに弱いので飲み過ぎにならないのがありがたい。最近は和と洋が半々で、洋の時はワインを飲むようになって食の世界が広がっている。

コロナ太り

令和2年8月7日
最近体重が過去最高に近い状態になっている。かつて30歳の頃、小豆島の病院に大学より派遣されて2年間勤務したが、この時が生涯で最も体重が増していた。なにしろ赴任していた町立病院の産婦人科医師は自分一人なので、休日も島からは出られずストレスが貯まる上に遊ぶ場所もない。他の医師たちは休日は本土へ遊びに行くが、いつお産があるかわからないので出かけられない。島内の観光場所などは1ヶ月もあれば行き尽きてしまう。わずかに夕方から病院内の有志でするテニスぐらいが気晴らしだったが、その後の酒盛りでかえってカロリーの取り過ぎになる。岡山市内への転勤が決まった時にはあわててダイエットをしたものである。太り過ぎはカッコ悪いではないか。この時は1か月ちょっとで10kg減らした。
今回のコロナ太り(本当はコロナとは関係なく単なる食べ過ぎ)にはさすがに困っているが、若い時に比べてモチベーションが湧かないのは困りものである。ダイエットをしなければと思いながら今日も美味しく晩酌をしている、嗚呼。

梅雨明け

令和2年7月31日
やっと梅雨明け宣言が出された。といっても関西と東日本はまだだが、ことしの梅雨は本当に長かった。コロナ騒ぎと重なって気持ちの晴れない、落ち着かない日々が続いていた。今日は一転して快晴、強い日差しが肌に刺さる。これからは猛暑が続くというがコロナも一緒に吹き飛ばしてしまえばいいのに。コロナは第1波に比べて第2波は症状も比較的軽い人が多いようで、無症状の人もそれ以上に多いようである。このウイルスは変異が早いのでヒトと折り合うように変化しているのかもしれない。それなら普通のコロナウイルスに準じた扱いでいいことになるのではないか。欧米、特にアメリカ大陸の感染の様子を見ると大変なようだが、なぜか我が国では重症化・死亡の数が少ない。これは人種の違いなのか他に理由があるのか、今の状態を見るとコロナはかなり市中に広がっていて、感染していないか感染しかけて跳ね返しているかわからないが、経済に大打撃を与えるほど警戒しなければならないウイルスではないのではないか。
私の信頼する日垣隆氏はこの騒ぎを今までの、今もある様々な感染症の状態(インフルエンザの感染者は400万人を下回ったことはなく、死者ではマラリアがコロナをまだ上回っている)と比較して過大な警戒に警鐘を鳴らしている。やはりスエーデンのように、コロナ(スエーデンでは死者の90%が70歳以上である)との共存政策を取るのがいいのではないだろうか。理由は①感染の広がりはウイルスの都合であること②各国の努力はあまり機能していない(マスク・消毒・引きこもり)③ウイルスとヒトは必ず共存するからである。

 

閑谷学校

令和2年7月27日
連休(と言っても土曜日は診療していたが)に友人夫婦と特別史跡閑谷(しずたに)学校を訪れた。閑谷学校は岡山県備前市にあり、1670年に岡山藩主池田光政によって創建された世界最古(?)の庶民のための公立学校で、備前平野の閑静な山裾にひっそり建つ日本遺産でもある。広い敷地に国宝の講堂をはじめ、学房、聖廟、神社などの建物があり、周囲を300年経っても変わらない精緻に造られた石塀が取り囲んでいる。隣には椿山があり池田光政公が祀られていて、手前には青少年教育センターも併設されている。
実はこの施設を学生時代使用したことがあったのだが、50年近く前とほとんど変わらぬ佇まいに感嘆したことである。大学男声合唱団の夏の合宿で滞在は1週間ぐらいだったと思うが、昔はこんな風にしていたのかという貴重な体験だった。周囲に何もないので気が散らないし、大きな声を出しても迷惑にならない。その分、1週間も経つともやもやして来て街の明かりが恋しくなってくる。昔の人はこれも鍛練と思って勉学に励んだのだろう。夏は涼しいが冬はさぞ寒かったことと思う。久しぶりにいいものを見せてもらった。

梅雨の晴れ間

令和2年7月17日
九州から中国地方にかけての豪雨が去り、久しぶりの好天である。梅雨明けというのか梅雨の晴れ間というのか、いずれにしても晴れた日は気分が良い。「梅雨の晴れ間」という言葉が好きなのは、大学時代に男声合唱団で同名の曲を歌っていたからである。
「梅雨の晴れ間」は北原白秋が26歳の時に著した第2詩集「思い出」の末尾に「柳川風俗詩」として48の詩編がありその中の1編である。白秋の生家は江戸時代から続く商家だったが、大火により酒蔵が全焼し没落した。現在、柳川市に「北原白秋記念館、北原白秋生家」として保存されていて先年訪れたが、かつての富商家の様子がしのばれてしみじみしたものを感じた。
「梅雨の晴れ間」という詩を覚えているのも、故多田武彦氏が作曲し男声合唱曲としてずっと歌い続けられてきたからである。詩と音楽の分野で感性の優れた人同士の作品は、時を超えて歌い継がれるものなのだろう。
「梅雨の晴れ間」
廻せ 廻せ 水ぐるま けふの午(ひる)から忠信が 隈取赤いしゃっ面に
足どりかろく 手もかろく 狐六法踏みゆかむ 花道の下水ぐるま…
廻せ 廻せ 水ぐるま 雨に濡れたる古むしろ 円天井のその屋根に
青い空透き日光の 七宝のごときらきらと 化粧部屋にも笑ふなり
廻せ 廻せ 水ぐるま 梅雨の晴れ間の一日を せめて楽しく浮かれよと
廻り舞台も滑るなり 水を汲み出せ その下の葱の畑のたまり水
廻せ 廻せ 水ぐるま だんだら幕の黒と赤 すこしかかげてなつかしく
旅の女形もさし覗く 水を汲み出せ 平土間の田舎芝居の韮畑
廻せ 廻せ 水ぐるま はやも昼から忠信が 紅隈とったしゃっ面に
足どりかろく手もかろく 狐六法踏みゆかむ 花道の下水ぐるま