乳がんのオープンカンファレンス

平成17年3月18日(金)
外科主催の乳がんのオープンカンファレンスに出席してみた。最近マンモグラフィーを撮るように厚労省がさかんに言っているので、検査法の精度が良くなったのかなど知りたかったからである。実際のところは某新聞の乳がんキャンペーン記事にあおられた厚労省が、対策を立てていることを示すためもあってマンモグラフィーが必要だと言い出したらしい。確かにマンモグラフィーは役に立つ検査法には違いないが以前からある検査法であり、急に有用性が増したわけではなくマイナス面もある。
乳がんの専門家の意見では、昔から行われている視触診法は熟練した医師が行えば見逃すことは少なく有用とのことである。なによりこの方法は検査するための 機械が必要ないからコストがかからない上に、マンモグラフィーのように患者さんが放射線を被爆しなくてすむ。ならば視触診だけでよいのかというと、実際には見逃しもあるために超音波検査やマンモグラフィーも必要なのである。ただし異常を感じた時にすればいいので、私はいつも自己検診法を教えて「乳房の管理 は自己責任ですよ」ということにしている。自己検診でいつもと違うと思ったら受診するようにすれば、むだなコストも省けるし早く見つかるようになる。厚労省も同じ予算を使うなら、自己検診を新聞テレビなどで広めたらどうだろう。その方が本当の意味で効果があり女性のためになると思うのだが。

運動不足

平成17年3月15日(火)
先日久しぶりにテニスをしたら風が強かったこともあり、足がついていかず足がもつれて転んでしまった。とっさに柔道の受身をしたので怪我はなかったが実にカッコ悪かった。日頃の運動不足と体重増加と年のせいだろうが、大いに反省した。年をとることはどうにもならないが、前の二つは努力次第でコントロールできるはずである。怠惰と飽食のつけがまわってきたようである。
ここ数日はまた寒さがぶり返してきた。コートが必要になってしまったが、コートが必要なのはこれが最後になってほしいと思う。

邦楽も大切に

平成17年3月11日(金)
最近ようやく少しだけ音が出るようになった。何の音かといえば尺八のことである。なにしろはじめはいくら吹いても音そのものが出ないし、出ても不安定でとても曲など演奏できなかったのだがここにきてようやく薄明かりが見えてきたように思う。今までいくつかの楽器を経験したが尺八は最も音を出すのが難しい楽 器の一つだと思う。ただし、音が出るようになればこれほど複雑玄妙な音の出せる楽器も少ないのではないか。
日本は明治維新の時に西洋に追いつくために、法律から産業、髪型から衣服に至るまでそれまでのやりかたをすべて変えてしまった。音楽も西洋の音楽を目標にして教育してきた。その結果、邦楽はマイナーになってしまい、和楽器に接することもなくなってしまった。現在では邦楽の演奏会は、趣味の人だけが細々とやっているだけである。ただ、このところ津軽三味線や篳篥(ひちりき)などで頑張っている才能ある若い人たちが出てきて、心強い。
そもそも日本はいつも極端で、西洋音楽がいいとなったらそれまでの歴史と伝統のある音楽をやめてしまう。学校でも和楽器に触れさせるようにすれば、ここまでマイナーになることはなかったのではないか。なにしろ西洋クラシック音楽の方が高級であるかのようにもてはやされていた時代があったのである。それぞれの国にはそれぞれの音楽があり、たとえばスペインにはフラメンコ、ポルトガルにはファドがある。バリ島にはケチャがありアメリカにはジャズがある。いずれもその音楽が発生して発展してきた歴史があるわけである。日本には和楽器を中心にした音楽があったのに、それに見向きもしなくなってしまった。好き嫌いでそうなったのならしかたがないが、国の政策として西洋音楽を一段上に置き学校で教え、伝統の音楽を古臭いものとして遠ざけてしまったのである。その結果邦楽は現在トキかと思われるようになっている。興味を示す人が少なければ、すぐれた才能も出てこない。消えてしまうことはないだろうが、いいものなので少しでも後の世代に残せるようにしていきたいものである。

病気の予後

平成17年3月7日(月)
我々は明日のことはわからないから毎日平穏に暮らしているが、もしどうなるかわかってしまったら心穏やかではいられないだろう。医者は、患者さんの病気の予後がかなりわかるので、予後不良の場合はどのように対処しようかと悩むのである。患者の立場から言えば、がんを宣告されたときの衝撃はすごいものがあるだろうが、いくら想像しても実際のところは本人以外には本当のところはわからないと思われる。
流産の場合も、初期で胎児(胎芽)の心臓の拍動が確認できても近いうちにだめになることが予測できる場合がある。超音波検査で診断できるのであるが、どのように話そうかといつも悩む。衝撃をできるだけ緩和するように努めているつもりであるが、実際のところつらさは本人にしかわからないだろう。医者は予後を知ってしまうが故に悩みも深まるのである。

春の詩

平成17年3月3日(木)
弥生三月である。ここのところ毎日の気温差が激しいようだ。それでも確実に春が近づいているという実感がある。「春はあけぼの」「千里鶯鳴いて緑紅に映ず」「春になればしがこも融けて」「春高楼の花の宴」「春風そよ吹く空を見れば」「春よ来い早く来い」「さくらさくら弥生のそらは」「やがて遠い地平から輝く春が」「みずはぬるみみずはひかり」「ふもとには桃や桜やあんず咲き」思いつくままの春を並べてみたが、長い冬が過ぎ希望に満ちた季節が春であり、我が国では卒業と入学も春である。日本人にとって春は特別なのだと思う。
今日は午後からは休みなので、今度辞めることになった受付の人の送別昼食会をした。いい人なので残念だが仕方がない。食事は愛宕のレディース鉄板焼き、要予約だがなかなか良かった。

相性は難しい

平成17年2月28日(月)
先日、他県に在住の患者さんより「紹介していただいたお医者さんと合わないようなのでどうしたらいいでしょうか」との連絡があった。患者さんは以前から当 科で診ていたのであるが、結婚して他県に転居されたが年に一回は当科を受診されていた人である。紹介させていただいた先生はその地におられる私の信頼するすばらしい先生である。相性が良くなかったのだろうか、双方に申し訳なく思っている。どんなにいい人同士でも相性が悪ければどうしようもない。「いい先生だから信じて行ってみて下さい」とお答えしたが、相性ばかりは難しいかもしれない。逆に私が紹介された場合にも同じようなことがあっただろうと思う。
今日で二月も終わりである。まさに「二月は逃げる」であっという間に逃げて行ってしまった。

私のやり方

平成17年2月25日(金)
人にはそれぞれの才能や性格にあった生き方があり大ざっぱに分けて、攻撃的に前へ前へと進むタイプとあまり無理せず分にあった(と自分で思う)やり方をするタイプがあると思う。
私自身は時にはもっと積極的に前へ進んでもいいのではと思うことがあるが、本質的に後者である。積極的に前に進むタイプならクリニックを始めた場合、まず小さなクリニックからはじめて集客に励み利益をどんどんあげて大きくし、人を増やし病院にして付属施設を増やし一大コンチエルンをつくるのが理想かもしれないだろうし、商売を始めたなら客を増やし支店をつくり一大チェーンを築き上げるのがいいと思うだろうし。もちろんこういうことができるのは才能と運、なにより人間の器が必要で、成功すればそれはそれですばらしいことだろう。でも自分にはそういう才能もないし、そうなった時の自分を想像してもピンと来ない。たとえそうなったとしても心から満足できるようには思えない。
やはり自分は目の前の一人ひとりの患者さんに、自身で責任のとれる範囲内の人数を一人ひとりの顔を見ながら診療するのが好きだし性に合っている。当院を受診してよかったと思ってくれる人が一人でも増えれば、このうえない喜びなのである。

津田秀敏著「医学者は公害事件で何をしてきたのか」

平成17年2月22日(火)
暖かい日が続いていたが、日曜日から寒さがぶり返してきた。ついにコートが必要になってしまった。まさに三寒四温である。
「医学者は公害事件で何をしてきたのか(津田敏秀著)」という本を読んだ。
この著者は私の母校の後輩であり同公衆衛生の講師であるが、その内容の緻密さと正確な論旨、正義感と学者としての真摯な姿勢など最近読んだ本の中では密度の濃いすばらしい著書であった。こういう人物がいるかぎり、まだまだ日本も捨てたものではないと思われた。著者はまず疫学から語り始め、水俣病は食中毒事件であると看破し、初期発動の時点で食中毒として処理しておれば法律に基づいてマニュアルに沿って対策がたてられ、被害は大きくくい止められただろうことを示したうえで、その後の水俣病に関するさまざまな学者の良心にもとるような、政府・企業を利する事実を捻じ曲げた学者の発言を実名を挙げてきちんと検証して論破している。
さらに「カネミ油症事件」も同じ構造でおこったものであるとして、薬害エイズ事件に至るまでなぜ同じことがくり返されるのかを考察している。そして、学者が本来の真理探究の姿勢を忘れてしまって、保身と自己栄達のために御用学者にならないように「学者ウオッチャー」を立ち上げたらどうかと提案している。一般人、ジャーナリスト、学者、企業人、行政官など立場を問わず発言の場を作り、討論し公開していく。それにより不誠実な学者は淘汰され、能力のある真摯な学者が残っていくのではと期待している。実際はそううまくは行かないだろうが、少なくとも今までよりは良くなるのではないだろうか。著者に満腔の賛意を表するものである。

都はるみコンサート

平成17年2月19日(土)
先日、都はるみのコンサートに行った。以前からプロの歌手の中でもピカ一のうまさがあると思っていたが、さすがにすごかった。美空ひばり亡き今では第一人者といってもいいのではないだろうか。客層は50代60代の男女(半々ぐらいか)がほとんどで、ジャズやクラシックコンサートの雰囲気とは大いに異なっていた。気取ったところがなく、心から都はるみの歌が好きだという感じが伝わってきてなかなかよかった。
元来、声(歌)が好きなので凄みのある歌唱のできる歌手は、どのジャンルでも興味があり聞いてみたいのである。歌(声)は誰でも歌えるが人を感動させる技量を持った人は稀であり、その頂点に立つプロ中のプロの歌は文句なくすばらしく、今聞いておかなければ二度と聞けないかもしれない。はるか昔、レコードで マリアン・アンダーソンの「魔王」を聞いた時震えるほどすごいと思ったが、都はるみもじつによかった。

冷や汗三斗

平成17年2月15日(火)
思い出すと冷や汗三斗のようなことはだれにでもあると思う。たとえばその分野の権威の人に、それと知らずに自分の聞きかじったその分野の知識を披露するような。たとえばその時は何かをしてもらってもあまり感謝の気持ちを感じなかったのが、ずっと後になって人生経験を積んではじめてそのことは思いやりのあるすごいことであったことがわかったこととか。私の場合は結構たくさんあり、たまに思い出すと時間を戻して訂正したくなる。そしてその度に自分はなんてつま らない人間だろうと思うのである。自分がその立場に立たなければわからないことはいっぱいあるが、本能的にそれがわかる人はちゃんとした行いができるのだ。
これからは後悔するようにはしたくないと思っているが、どうせ何年かたってみるとまたしまったと思っているにちがいない。これはセンスの問題であるか。