月別記事一覧 2006年10月

セカンドオピニオン

平成18年10月30日(月)
セカンドオピニオンを求めて来院される人がおられるが、病気に対する考え方をどう説明しようかと迷うことがある。これは医療に対する一般の人の意識と我々医療者の感覚の違いだろうが、自分の場合はそれ以上に違いが大きくて困惑することがある。
たとえば子宮がんの検査で軽度の異型細胞が見られた場合、多くは放置しても正常に戻るが一部は悪性へと進む。悪性に進んだら困るので何度も検査して組織を 調べ、場合によっては円錐切除術を行うこともある。異型細胞が出ても自然に正常に戻る人にとっては意味のないことである。問題はどちらに進むか現代の医学 では見極めがつかないことである。たとえば100人に一人が悪性に進行し、そのほかの人は正常になるとしたら99人にはむだな検査と治療をすることにな る。比率がどのくらいなら許されるのだろうか。
このことは、がんの早期発見・早期治療が本当に生命予後を延ばすことに役立っているのかという、いまだにはっきりとは証明されていないという問題とも共通 して悩むところである。必要のない人にはむだな検査・治療で負担をかけたくないし、放置したことが原因で生命予後が短くなることは絶対にやってはならない し、その見極めのポイントが難しいのである。

ブランデンブルグ

平成18年10月25日(水)
秋も深まってきて、東北地方ではもう紅葉が見られるという。今年は近場でもいいからぜひ紅葉を見たいものだ。紅葉というとなぜか思い出す詩のフレーズがあ る。高村光太郎の「ブランデンブルグ」の「金茶白緑雌黄の黄」という一節である。彼の日本語をざっくりと削ったような表現は強く心に残るものである。
「ブランデンブルグ」の底鳴りする/岩手の山におれは棲む。/山口山は雑木山。/雑木が一度にもみぢして、/金茶白緑雌黄の黄、/夜明けの霜から夕もや青く淀むまで、/おれは三間四方の小屋にいて、/伐木丁々の音を聞く。

分娩中に脳出血で死亡

平成18年10月20日(金)
このところニュースに産婦人科の話題が多い。今度は、奈良で妊婦さんが分娩中に脳出血で亡くなられたとのことである。主治医は子癇と思ってCT検査をしな かったことと、受け入れ病院がなく8時間後にやっと病院がみつかったものの赤ちゃんは無事だったが母親は死亡したという。
ことの詳細は追ってわかってくるだろうが、お産に関して世間と我われ産婦人科医との間にある認識の違いがいつも問題になる。つまり、お産は無事に生まれて あたりまえ、何かあったら医師にミスがあったのではないかとの風潮がある。確かにお産の8割は何もしなくても、自然に生まれる。さらにいえば正常妊娠・分 娩には妊婦健診すら必要ない。なぜなら分娩は哺乳類の自然現象であり、人類発生の昔から医療の介入なしで連綿と続いてきたことであるから。問題は、正常に 生まれる8割以外のお産である。昔からお産で死亡する妊婦さんは実に多く、我が国の統計では西暦1900年(明治33年)には250のお産で1人が亡く なっていた。戦後になって減りはじめとはいえ1950年(昭和25年)で約600のお産で1人とまだ多かったが、現在では約20000のお産に1人となり 世界のトップになっている。いうまでもなくこの統計は新生児の死亡ではなく妊産婦の死亡である。
どんなに完璧に経過を診て治療しても不幸にして亡くなることは残念ながらある。それでも万一亡くなったら、ミスではないかと警察まで介入するのはやりすぎ ではないだろうか。原因がわかった後ではなんとでも言える。分娩時に異常がおきた時の主治医の心境が察せられるので、やりきれない思いがするのである。

根津医師の勇気

平成18年10月16日(月)
諏訪マタニティークリニックの根津院長が、子宮を摘出して子供が生めなくなった娘の代わりに50歳を過ぎた母親が娘夫婦の受精卵を自分の子宮で育てて出産 したことを明らかにした。色々な意見はあるだろうが、すばらしいことである。根津氏の愛情に満ちた信念の行動にはいつも敬服しているが、今回もまことに理 にかなった問題提起でその勇気には頭が下がる。
根津氏は以前にも患者さんのために必要な医療を行った際、産婦人科学会から除名処分になったが、どう考えても産婦人科学会の裁定に問題があるように思え た。今回の問題提起も、かつて想像もつかないような「代理出産」が現実になったときに、従来の法整備ではだめであり変えなければならないのに、だれも変え ようとしないことが問題なのである。法は人の幸せを助けるためにあるのだから、現実にあわせて変えていかなければならない。すべてはその一点にあり、その 本質を見抜いて起こしている氏の勇気に満腔の賛意を表したい。

南木佳士氏の作品

平成18年10月11日(水)
現役の医師で作家の南木佳士の作品を愛読しているが、彼の作品に触れるたびに作家とはそうなるべく運命付けられた人だと思う。まず、ものを見る視点が違 う。そしてその視点は私自身が日頃忘れている、場合によっては無意識に考えないようにしていることがらを顕にし、日常生活の中で鈍磨した感覚を一時的にせ よ覚醒させてくれる。そうなんだ、自分もこういう感覚で世の中に相対していた頃があったんだとほろ苦い思いをよみがえらせてくれるのだ。さらに、作家は自 分の出自や思いを書かずにはいられない種類の人間である。どの作家もそうだろうが、生まれた環境と生い立ちは一人ひとり異なり、それゆえ一人の作家は広い 意味で一つの作品しか書けないしそれ以外は本物ではなく、それでいいのだと思う。
以前にも書いたが、下村湖人は戦前から戦後にかけて教育に携わったすぐれた仕事をした人であるが、やはり「次郎物語」に尽きるしこの作品は彼の全人生をか けた名著である。南木氏の作品もそれぞれのテーマは異なっているが底に流れる旋律は同じで、いつも静謐であたたかく、一方で繊細で危うさのある魂を感じさ せてくれる。優れた作家の作品に触れるのは幸せなことである。

腹立たしいレセプト審査

平成18年10月6日(金)
いままで一度も削られたことのなかった膣錠が7月のレセプトで削られた。保険の審査の係の医師が変わったらしい。一件で100円にも満たない額だが10件 以上あり、再審査の請求を出すほどの金額でもないし実に不愉快である。私としてはいつも必要最小限の検査をするように心がけており、いくら保険で認められ ているからといっても過剰な検査・治療はしていないことに自信を持っている。もちろん薬も本当に必要なものしか出さないようにしているし、どんなに一般的 に行われているやり方でも有用でない(実際のところ結構多いのである)治療はしない。どんな診療をしているかレセプトを見ればわかるだろうに実に腹立たし い。
愚痴をこぼしても仕方がない。気を取り直して診療に励むことにしよう。

健康診断の義務をなくせ!

平成18年10月2日(月)
職場の健康診断で検尿に異常があるので、医療機関でくわしく検査するようにいわれて来院された人が今日もいた。その健康診断が行われたのはじつに1ヶ月!前で、本人は自覚症状はなにもないという。調べたところ尿も正常で何も問題ない。
こういうケースは実に多く、たとえ軽い膀胱炎でも自然に治ることもあれば、悪化することもある。前者なら放置しておけばよいし後者ならすぐに抗生物質を処 方しないと腎盂炎になりかねない。健康診断の結果が本人に知らされるのはおよそ1ヶ月くらい後だろうから、急性の病気には意味がなく、治っているものには 更に意味がない。時間とお金のむだである。
そもそも健康診断(人間ドックを含めて)に意味があると思われたのは学校や職場での結核を防ぐという意味においてであり、現在のような健康診断が意味があ るという証拠はいまだにないのである。厚労省は健康診断には血圧の測定ぐらいしか意味がなく、健康の増進および病気の悪化を防ぐ証拠はないとの報告書を出 したというのに、いまだに職場の健康診断が法律で義務付けられているのはどういうことだろうか。全国で行われているこれらの健康診断に要する費用を介護に まわしたら、介護の内容がどれだけよくなることだろう。早く気付いてほしいものである。