カテゴリー 尺八

尺八はトキか

平成18年5月27日(土)
昨日は近くで行われた尺八の演奏会に行ってみた。20~30人ぐらいの小さな演奏会であるが、そもそも尺八の演奏会自体がほとんどないので、見つけたらで きるだけ行ってみるようにしている。今回のは新聞のイベント欄で見て行ったが、集まっていたのはほとんど関係者ばかりで一般の参加者は私だけではないだろ うか。尺八はまさにトキ状態だと改めて感じた。たとえそうであっても自分としては少しでも魅力的な音を出せるように研鑽しようとしみじみ思った次第であ る。

石川利光氏の演奏会

平成18年3月20日(月)
先日、久しぶりに尺八の演奏会に行った。神戸在住の石川利光という演奏家の会で、内容も良く満足のいく演奏であった。ピアノ伴奏との息もピッタリ合って、 なかなか良かった。ただ、わずか60人ぐらいの観客のほとんどが関係者で、一般客は少ないようであった。この人数では演奏会としてはペイしないのではと心配になった。また、尺八がいかにマイナーな楽器であるかを再認識することとなったのは皮肉なことである。
南米のケーナや英国のバグパイプの方がまだ世界的にはメジャーなのかもしれない。尺八の良さがわかってきた自分としては非常に残念なことである。思うに明治時代に西洋に追いつけとばかりあせったために、音楽は西洋音楽一辺倒になり、和楽器は義務教育から省かれてしまったことが衰退の大きな原因ではないだろうか。和太鼓、三味線、琴、横笛、尺八など我が国の歴史と伝統のある音楽が軽んじられて、西洋音楽がまるで高尚なブランドのようになってしまったのである。我が国の西洋音楽の基礎をつくったともいうべきあの夭逝した滝廉太郎は、尺八の名手だったそうだ。

技術の習得

平成18年2月4日(土)
今日は本来の季節どおりの、雪混じりの寒い日である。でも患者さんの出足は普段より早く夕方まで忙しかったのは土曜日だからだろうか。
技術の習得は何度もくり返していくうちに、ある日突然できるようになるというが、こと尺八の演奏についてはなかなかそうはいかないようである。まず音を出すのが難しく、いい音を出せるようになれば9割は修練できたも同然だと思うがこれが難しい。他の楽器でこれほど音を出すこと、特にいい音を出すのが難しいものはあまりないのではなかろうか。まあいつかは満足のいく音が出せるようになる日を夢見て、練習を重ねていくしかない。

オーストラリア女流演奏家のコンサート

平成17年10月3日(月)
2日の日曜日にオーストラリアの女流尺八演奏家のコンサートを聴きに行った。非常にすばらしい演奏で、古典の曲に対するこういう解釈もあるのかと感心した次第である。音楽はいかにいい音を出して正確に演奏するかが大切であり、それにどれだけその演奏家の音楽性を加えられるかが重要だと思うが、それぞれの曲に対して日本人的思い入れが感じられない分だけ素直に音楽が耳に入り快かった。演奏家自身が作曲した2曲の作品を広島の演奏家の人たちが演奏したが、曲想は彼女の演奏と同じように感じられたのでそれが彼女の個性だと思った次第である。同時に広島在住の日本人男性によるディジュリドゥ(オーストラリアの民族 楽器)の演奏もあって、それぞれの国の楽器を交換して演奏しているかのように感じた。
我が国では尺八などの和楽器はトキのような存在になっているが、彼の国では結構人気があるとのことである。古臭いと思うかもしれないが、尺八は歴史あるなかなか魅力的な楽器だと思う。

才能と努力

平成17年6月29日(水)
才能と努力の二つを兼ね備えた人物はどの分野にもいて、世のため人のためになり世に知られるようになる。しかし、世の中の多くの人は両方ともないか、片方 だけしかもそれほど傑出していないのが普通である。努力は才能のない我々凡人には最も大切なことで、努力しなければろくなことにならないのは世人の認める ところである。
一方、才能に関しては生まれつきのもので努力だけではどうしようもないものが多い。たとえばスポーツなどでははっきりしていて、百メートルを早く走れる人 は最初から早いのであり、練習したから16秒かかっていたのが11秒になるわけではない。せいぜい2秒早くなる程度だろう。音楽の才能もやはり天賦のもの で、楽器の演奏などはうまい人は初めからうまい上に、一層努力するからさらに技術に磨きがかかる。才能があるから努力できるわけで、もし全然なければはじ めから努力しようという発想がないだろう。
なぜこんなことを云うかというと、尺八がうまくならないからである。少し音が出るようになったと感じたのは幻想であったことに気付いてしまったのだ。師匠 の主催するおさらい会の課題曲「六段」を琴と合わせて練習したのだが、録音した音を聞いてがっくりきた。琴はすばらしいのだが、尺八のひどいこと。そもそ も音が出ていない。もともと音そのものを出すのが難しい楽器ではあるのだが、それにしてもである。こういうのは努力だけではどうしようもないのだろうか。

「三」にまつわることわざ

平成17年6月10日(金)
「三」という数字にまつわることわざは多く、けっこう真実をついていると思うことがある。
時間については「三日坊主」「坊主と乞食は三日やったらやめられない」「桃栗三年柿八年」「櫓三年に棹八年」などがあり、数については「三人寄れば文殊の知恵」「毛利元就の三本の矢の話」「三顧の礼」「三度目の正直」「仏の顔も三度」など多数ある。
新しいことを始める時は、まず三日やってみてどうかと考え、つぎは三ヶ月、そして三年やれば一区切りだろう。いずれにしても「三」にまつわってそれぞれ目安がつく期間である。「石の上にも三年」と言うではないか。
私事ではあるが尺八を習い始めた時、あまりに音が出ないので何度もやめようかと思ったが、とりあえず三年はやってみようと決めて練習してきた。それがなん とあと半年で三年になる。今はもう少しやってみようと思うようになっている。つまり少しは音が出るようになったということだ。やはりことわざは正しいよう である。

邦楽も大切に

平成17年3月11日(金)
最近ようやく少しだけ音が出るようになった。何の音かといえば尺八のことである。なにしろはじめはいくら吹いても音そのものが出ないし、出ても不安定でとても曲など演奏できなかったのだがここにきてようやく薄明かりが見えてきたように思う。今までいくつかの楽器を経験したが尺八は最も音を出すのが難しい楽 器の一つだと思う。ただし、音が出るようになればこれほど複雑玄妙な音の出せる楽器も少ないのではないか。
日本は明治維新の時に西洋に追いつくために、法律から産業、髪型から衣服に至るまでそれまでのやりかたをすべて変えてしまった。音楽も西洋の音楽を目標にして教育してきた。その結果、邦楽はマイナーになってしまい、和楽器に接することもなくなってしまった。現在では邦楽の演奏会は、趣味の人だけが細々とやっているだけである。ただ、このところ津軽三味線や篳篥(ひちりき)などで頑張っている才能ある若い人たちが出てきて、心強い。
そもそも日本はいつも極端で、西洋音楽がいいとなったらそれまでの歴史と伝統のある音楽をやめてしまう。学校でも和楽器に触れさせるようにすれば、ここまでマイナーになることはなかったのではないか。なにしろ西洋クラシック音楽の方が高級であるかのようにもてはやされていた時代があったのである。それぞれの国にはそれぞれの音楽があり、たとえばスペインにはフラメンコ、ポルトガルにはファドがある。バリ島にはケチャがありアメリカにはジャズがある。いずれもその音楽が発生して発展してきた歴史があるわけである。日本には和楽器を中心にした音楽があったのに、それに見向きもしなくなってしまった。好き嫌いでそうなったのならしかたがないが、国の政策として西洋音楽を一段上に置き学校で教え、伝統の音楽を古臭いものとして遠ざけてしまったのである。その結果邦楽は現在トキかと思われるようになっている。興味を示す人が少なければ、すぐれた才能も出てこない。消えてしまうことはないだろうが、いいものなので少しでも後の世代に残せるようにしていきたいものである。

尺八のCD

平成17年1月22日(土)
最近は暇があると尺八のCDをかけるようにしているが、いい演奏を聴いているとじつに心がなごむ。学生時代に男声合唱にはまったとき以来の新しい体験である。どの分野の音楽でもそうだろうが、いいものは実にいい。何回聞いてもあきない。なにしろ30年前に録音された合唱曲をいまだに時々聞いては、しみじみ いいなあと思っているのだから。
衣食足りて礼節を知ると言うが、音楽は余裕のあるときも苦しいときも同様に人を豊かにするゆえにすばらしい。どちらかというと、苦しい時やつらい体験をしている人々の中からいい音楽が生まれる傾向があるように思う。そして苦しいときの方が音楽も心にしみ込むような気がする。
ここのところ暖かいと思っていたら、大寒を過ぎたあたりから文字通り寒くなった。やはり暦は正しいと改めて思った。

荒城の月尺八研究会

平成16年12月14日(火)
12月も半ばになると、暖冬とはいえさすがに寒くなってきた。それでもコートが必要とは思わないのでまだ例年よりは暖かいのだろう。
昨夜はひさしぶりに「荒城の月尺八研究会」と称して(二人だけの会であるが)クリニックで尺八を吹いて、その後食べて飲むという楽しい会を行った。なにしろプロ級のすごい人なので私の腕ではさぞかし迷惑をかけているだろうが、いやがらずに付き合ってくれているのはありがたいことである。すごいと思うのは飲み屋などで彼が戯れに尺八を吹くと、居合わせたほかのお客さんたちが静まり返って聞きほれた後、万雷の拍手が起こることである。この時はわがことのようにうれしい。私もうまくなりたいとは思うのだが、こればかりは才能の問題もあり難しい。でも、地道に練習していくつもりである。
今日は長いこと来ていなかった久しぶりの患者さんが多い一日だった。

尺八を習いに来たアルゼンチン人のサックス奏者

平成16年6月24日(木)
日誌ではなく週誌になりつつある今日この頃である。台風が過ぎていったら今度は雨だ。実にうっとうしい。はやく梅雨明けしないものか。
午後から尺八を習いに行ったら師匠の所に、アルゼンチン人で今スペインに住んでいるサックス奏者が来ていた。以前一度彼の尺八の演奏を聞いたことがあるが素晴らしいものだった。時々日本に来て尺八を勉強しているらしい。彼は数年前にインドで尺八の音色を聞き、それが日本の楽器で日本へ行けばわかると聞いてやってきたとのことである。外国人で尺八にはまっている人は少なからずいるようだが、肝心の日本人はほとんど関心を示さないのはなぜだろうか。明治以来、西洋のものなら何でも素晴らしいと思って、西洋音楽ばかり教えてきた学校教育のせいだろうか。
最近では和太鼓なども見直されているようだし、雅楽の奏者も人気が出ているので尺八も復活するかもしれない。