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狂牛病騒動は何だったのか

平成17年2月8日(火)
英国狂牛病(BSE)由来のヤコブ病で日本人患者さんが一人亡くなったとのニュースがあった。非常に気の毒ではあるが、今回はそれほどの騒ぎにはなっていないようだ。以前の米国産の牛肉の輸入中止のときはすごかった。あのときの騒ぎはいったい何だったのだろうか。
そもそも狂牛病の牛が18万頭もいる英国ですら、さらに言うと脳みそを好んで食べる英国ですらそれが原因のヤコブ病は153人しかいないという。一方、狂牛病とは関係ないが同じ症状を示すクロイツフェルド・ヤコブ病では毎年日本で100人前後の人が亡くなっており、全世界では毎年1万人前後の人が亡くなっているとのことである。こちらの方がはるかに恐い。マスコミも騒ぎすぎだし、その流れにのって米国産の牛肉を輸入禁止にした政府もいったい何を考えているのだろう。こういうときこそ専門家がきちんとデータを出して、徒に恐がらせないようにするべきだろう。以前のダイオキシン騒ぎの時もそうだったが、いつも最初にマスコミが煽ってそこに政府のやることは何でも反対する声の大きいひとたちが騒いで、そのことを正しく把握している専門家の意見は無視されていくという構造は変わらないようである。

ピル普及のフォーラム

平成17年1月20日(木)
昨日診察中に、ピルの普及に尽力している東京のK先生から、広島でピル普及のフォーラムを開くので広島代表で出てくれとの依頼があった。当院でピルの処方が多いからだろうが、外来中で詳しいことがわからないので、考えておきますと答えたら30分後にもう結構ですとのFAXが来た。なにしろ突然のことなので即答しなかった当方が悪かったのだが。
確かに今のピルは副作用が少なくて非常によいのだが、発売は1980年代であり、欧米ではどんどん新しいピルが発売されている。我が国では、今のピルが薬事審議会で認められるまでに10年以上かかったので(安全性も確認済みにもかかわらず、ピルを使う女性が増えたら性病特にエイズが増えるかもしれないので誰が責任を取るのかという、わけのわからない理由でたなざらしになっていたらしい。いらざる世話である)メーカーも新しいピルを申請しても同じようになるのではと考えて、申請を躊躇しているのではないだろうか。もっと速やかに承認できるようにシステムを変えることはできないのだろうか。

年賀状の遅配に思う

平成17年1月14日(金)
今年の年賀状も例年と同じく遅れて配達されたり、年末に出しているのに7日!に着いたりと結構ばらつきが目立った。新聞の投書欄にもそのことを書いている人がいて、全国的にもかなり不備があると思われる。年賀状はまとめて配達できる上に、あらかじめ出しておくのでアルバイトを使って準備できるなど一枚あたりのコストがかなり節約できるため、その儲けたるや天文学的金額だという。にもかかわらずこのいい加減さはどうしたことだ。もともと郵便番号を7桁にした時も、国民に手間を強いるお役所的なやり方だと腹立たしかったが、毎年年賀状の季節になるとあらためて思い出し不快になるのである。
クロネコヤマトなら郵便番号などユーザーに手間をかけさせるようなことはせず配達もきちんとするだろうし、客の意見を聞いて一生懸命頑張ることだろう。なぜなら「民」はサービスが悪ければ会社は存続できずにつぶれてしまうだろうし、逆にうまくいけば利益が増えるから必死になるのもあたりまえというわけだから。さらに言うと、「官」はどんなにサービスが悪くてもつぶれないが、たとえ必死になって頑張っても給料が増えるわけではない。だから誰が考えてもこのようになるのは必然である。
律令の昔からこの問題はずっと言われて来たに違いない。でも、いまだに解決していないところを見ると、錬金術や永久機関のように決して解決できない問題なのではないだろうか。

時代の流れは止められない

平成16年12月24日(金)
時代の流れというのは、それがどんなに間違っていても誰にも止められないものである。日本は大平内閣の頃から赤字国債を出し始めたが、その額は次第に増えていき今では700兆円もの借金になってしまった。これは大変なことである。赤字国債を出すまでは戦争でほぼ壊滅状態だった日本が、一心不乱に頑張って借金なしの黒字国家になって安心したのか、初めは少しだけだったのが次第に増えて今では返すことが不可能になってしまっている。
ダイエーはなんとかなるかもしれないが、国ではどうしようもないだろう。いくら先送りにしても必ずどこかで清算しなければならない時がくる。低金利のままなのもその所為だろう。いまの極端な低金利は、国民全員で借金の利子を増やさないようにしていることで、国民が本来受け取るべきお金を国の借金のために犠牲にしていることだ。これらのことは皆本能的に感じているから、色々問題があっても少しは良くしてくれそうな小泉政権を支持するし低金利も我慢しているのだろう。
先の真珠湾攻撃で始まった戦争も、もしアメリカ相手に開戦すれば日本は破滅することがわかっていたにもかかわらず、だれも止めることができなかったのである。時代の流れとはそういうものであろう。結局私達のすべきことは、何が起ころうと自分にできることを毎日着実にやることだけではないだろうか。

子供の名前にみる漢字文化の変遷

平成16年12月17日(金)
今年生まれた子供につけた人気のある名前が男女共に1位から10位まで発表されていた。男の子の1位は「蓮」で、女の子は「さくら」と「美咲」だそうだ。 言葉、いいかえると国語こそがその国のアイデンティティーそのものであるから、親が子供につける名前は今の日本の状況の一端を表しているといってもいいのではないだろうか。なぜなら親が子供に名前をつけるときほど真剣に文字や漢字を検討することはないと思うからである。皆わが子に幸せになって欲しいという願いをこめて名前をつけるだろうから、一生懸命願わしい文字や漢字を考えるのである。
日本は外来文化を取り入れて生存してきた国であり、わずか百年前までは漢字文化がほぼすべてであった。だから日本語(やまとことば)と漢字文化のみごとな 融合が日本語そのものであった。ところが、明治以来欧米の言葉を知る必要にせまられると、これまたしっかり取り入れており、いまでは外来語(カタカナ)なくしては話ができないぐらいである。無論、漢字文化に比べて歴史が浅いので単語のみではあるけれども、その分だけ漢字文化に対する感覚が弱まってきているように感じる。それを端的に表しているのが子供の名前だというのは言い過ぎだろうか。
文字の意味そのものを考えると、どうして?と思われる漢字を使った名前が少なからず見られるのは、漢字文化の影響が弱くなっているのではないか。もちろん流行でつけた名前も多いだろうが、流行こそ国の状態を表しているという意味では同じである。漢字の意味が気になる世代としては、引っかかる部分があるのも事実である。
今日は理屈っぽくなってしまったが、日頃思っていることを書いてしまった。

混合診療について

平成16年12月9日(木)
混合診療について色々な意見があるようである。ものごとは単純に考えた方が良いと思う。つまり、どちらが受益者(患者)のためになるかである。現行の制度では、保険診療外の検査や治療をすると保険の分まで自費となる。これは患者のためにはならない。だから患者のためには混合診療のほうがとりあえず良いのであるが、問題は国はお金が足りないために医療費を減らしたいので、本来保険でできていたことまで自費にするかもしれないということである。だから将来結局患者に不利益になるというわけである。たしかにそうかもしれないが、古来統制経済にしてうまくいった例を知らない。統制は緩やかな方がいい。最も統制の強い国々がどうなっているかは、歴史的に明らかだろう。
難しい議論はいろいろあるだろうが、医者はとりあえずどうしたら目の前の患者さんが良くなるか、いまより幸せになるかだけを考えていればよいのである。そうであれば自ずから答えは決まってくると思う。

少子高齢化は必要悪?

平成16年11月20日(土)
産婦人科の医師の高齢化が進んでいるという。特に山間部ではお産をする施設がどんどんなくなっている。このままでは、都心以外に住んでいる人はお産できな くなってしまうかもしれない。少子高齢化が進めば当然のことで、お産をする人がいなければ本来の意味での産婦人科は必要なくなる。でもこれは由々しき問題で、次の世代が少なくなれば民族としては先細りになってしまう。生物の特徴は増殖することであるとすれば増えるのが正しいのだろうが、生きるために必要な資源には限りがある。がんと同じで増えすぎると宿主を死なせてしまう。そのバランスを本能的に保つとしたら、厚生労働省の予測のように人口が減ってしまうことはないだろうし、いいところに落ち着くのだろう。日本人は戦後から着実に人口を増やしてきて、このままではよくないと本能的に気がついたのかもしれな い。

「患者様」より患者さん

平成16年10月27日(水)
近頃病院で患者さんを呼ぶときに、「○○様」という言い方をよく聞く。以前はどこでも「○○さん」であったのがほとんどこの言い方になってしまった。医者や看護婦(看護師に呼び方が変わったようだが)はほとんどの場合「○○さん」と言っているようであるが、受付では「様」と呼ぶことが多くなっている。年配の人が新聞の読者投稿欄に、病院で「様」と呼ばれたらわざとらしく、違和感を覚えてイヤである、と書いていたがまさにそのとおりである。私自身が病院へ 行って受付で呼ばれるならまだしも、医者や看護婦から「様」と言われたら、この病院はうしろめたいことでもあるんじゃないかと思ってしまうだろう。学校の先生に生徒が「様」と言われたり、寿司屋のオヤジに客が「様」と呼ばれたりするようなもので、違和感を覚えるに違いない。
言葉は時代と共に変わって行き、皆が違和感を感じなくなればその言葉は定着したことになるので、将来は「様」になるかもしれないが、今は自分で違和感を感じない言葉を使いたいと思う。

濡れ手に粟の宝くじ

平成16年10月18日(月)
今日は汗ばむほどの陽気であった。またも台風が近づいているという。今年は台風の当たり年である。天災はどうしようもないが、人の努力でどうにでもなることはたくさんある。今、民営化が叫ばれているが一番簡単にできることがある。それは「宝くじ」の民営化である。
和歌山県で、宝くじの利益を使った議員の外遊が問題になっているが、驚いたことに和歌山県の1年間の宝くじの売上が95億円で必要経費が9億円、払い戻し が40数億円、お上がとりあげる利益(民間では「テラ銭」と言う)が40数億円だそうである。払戻金が半分以下とはあんまりではないか。
日本中どの宝くじも似たようなもので、庶民がなけなしのお金で夢を買おうとするのに、賭けたお金の半分とりあげるとは、ひどすぎる。競馬では払い戻しは8割だし、競輪や競艇も同様である。ヤ○○のばくち場でも7割以上は払い戻しをするという。なにより、これらのギャンブルは賭ける人を楽しませる努力をしている。それに比べて宝くじはどうだ。タレントを使ってテレビで宣伝するぐらいで、ほとんど努力なしである。まさに濡れ手に粟とはこのことだ。
「宝くじ」を民営化すれば9割払い戻しも可能だろうし、いろいろなイベントや楽しみも増えるだろう。だいたい「射幸心をあおるからギャンブルはよくない」といって民間には禁止しておきながら、宝くじで努力もしないで5割もテラ銭をとっておいて、その利益を使って大名旅行して恥じない厚顔無恥はどうしたこと か。
「宝くじ」は各自治体が、売上や必要経費、払い戻し率を毎年広く公表して一般の審査を仰ぐべきである。そして賛同を得られるように努力すべきだろう。最善の策は、お上は手をひいて民間にやらせることであるが。

光陰矢の如し

平成16年10月6日(水)
一日の長さ、一年の長さは、それまで生きてきた長さに反比例して感じるらしい。つまり、3歳の幼児にとっての一年はそれまで生きてきた長さの3分の1であるが、50歳の人では一年は50分の1にすぎない。一年が早いわけである。だから歳を取るごとに一年が早くなると感じるのもむべなるかなである。
時間は常に一定の速度でながれていると思われていたが、そうではないとの理論を明らかにしたのはアインシュタインであった。さらに別の理論では、時間は物質の変化のスピードによって決まり、変化の激しい所では時間が早く進み、ほとんど変化のないところでは時間が止まっているに等しいという。都会では時間が過ぎるのが早く、田舎では遅いと感じるのはそのせいなのかもしれない。
本当の所、時間は実際に感じる感覚と現実に過ぎて行く速さの両方で変化するものだと思うが、このところ一年が早すぎる。困ったものだ。