カテゴリー 思い出

なつかしい歌

平成19年3月7日(水)
小さい頃に聞いた歌や音楽は記憶にしっかり刻み込まれているようで、いつ聞いても妙になつかしく感じる。小学校時代に聞いた記憶のある「文部省唱歌」はとくに郷愁を誘う。
「蛍の光」「夕焼け小焼け」「われは海の子」「箱根八里」「荒城の月」「叱られて」他にもたくさんあるが、もしこれらの曲を今始めて聞いたらどうだろう。はたして今ほど感動するだろうか。もちろんいい曲は、国境を越え時代を越えて人を感動させるが、やはり小さい頃に習った時の思い出がこれらの曲の味付けになっていることは否めないだろう。NHKでこれらの曲のコンサートを放送することがあるが、つい見入ってしまう。映された会場を見れば観客はほとんど同年代かそれ以上ばかりで、やはり小さいときの刷り込みは大きいと思う。

日本酒はおいしい

平成19年1月23日(火)
このところ晩酌はビールと日本酒である。最近日本酒をうまいと感じるようになってからは、いろいろ銘柄を試してだんだんと好みが決まってきている。それまではビールのあとはウイスキーの水割りが定番だったが、今は日本酒が一番いい。
日本酒については嫌な思い出があり、今まで飲みたいと思ったことはほとんどなかった。それは忘れもしない大学一年生のヨット部の初合宿の夜、広間に上級生達がずらりと車座になっているところを、我々新入生は一人ずつ献杯して回ることになっていた。何しろ酒をちゃんと飲んだことがない上にアルコールにどのくらい弱いかもわからないのである。一升瓶をかかえている先輩達の前に座り、コップを出して献杯の応酬をするのである。先輩が30人いれば30杯のコップ酒を飲まなければならない。途中でこれはヤバイと感じて、飲んだふりをしていたが遅かった。トイレに行く途中で倒れて気付いたのは翌日の昼、合宿所に一人で寝ていた。ほかの連中はすでに海に練習に出ていて誰もいなかったのである。頭は痛いし気分は悪いし、これが初めての二日酔いだった。その上、外にはげろを吐いた布団が干してあり、練習から帰ってきた同僚達に「トイレに行って倒れたので、みんなで布団に寝かせといたら、夜中に突然起き上がってワシの布団に吐いたんだぞ」と言われる始末。それからは日本酒を見るのも嫌になった次第である。でも今は実にうまい。

凍結した道路

平成17年12月2日(金)
早いものでもう師走である。今年はまだあまり寒くないが、例年だとコートが必要になる頃だ。ちなみに昨年の日誌を見ると、寒くなったのは12月の後半以降なので本当はいつもこんなものかもしれない。同じ広島県でも北部と南部ではかなり気温の差があり、やはり旧市内は温暖である。
研修医の頃、姫路市内の病院にいたことがあるが、市の北端に位置するその病院は実に寒いところで、市内南部より気温が数度は低く同じ市内とは思われなかっ た。また、神戸市北区の病院に勤務していた頃は、なにしろ六甲山の北側ゆえ道路が凍結して車の運転はもとより歩くのさえ危ないことがあった。その時にはじめて凍結した道路を歩くための長靴があることを知ったのである。

体重オーバー

平成17年11月25日(金)
ダイエットが必要なぐらい体重がオーバーしてしまっている。減量をしなければならないが、どうもうまくいかない。そんなに本気でしようと思っていないからでもあるが、食い意地が張っていて意思が弱いからだろう。ここ二ヶ月というもの体重が全く変わらない。腰にもよくないし第一不経済である。
ちなみに体重の変遷をあげると、20歳で67キロ、30歳で77キロ、40歳で80キロ、50歳で85キロと順調に成長している。20歳から30歳にかけて10キロ増えているのは、仕事の激務によるストレスで食べ過ぎたからではないかと言い訳しているが、その頃はほぼ毎日夕方から2時間ぐらい病院のすぐそばのコートでテニスをしていたので運動不足とはいえないだろう。だからそこまで増えたのが不思議なことではある。この時は一念発起して2ヶ月で10キロの減量に成功している。今は自分ではカロリー摂取は控えめにしているつもりだが客観的にみれば取りすぎなのだろう。アルコールをあまり飲んでいない時代にも確実に体重が増えていたことを考えれば、現在ややオーバーなアルコール摂取のせいにもできない。

ハイボールの復活

平成17年11月8日(火)
最近、ハイボールが復活してきたそうだ。ハイボールとは戦後から60年代まで流行ったウイスキーのソーダ割りのことである。我々が大学生の頃はまだトリスバーが残っていて、そこでは国産ウイスキー「トリス」「レッド」(二級酒である)をソーダで割ってレモンをたらして飲むハイボールがあった。田舎の高校生の頃雑誌などの小説を読むと、しばしばハイボールを飲むシーンがありどんなものかと思っていたので試してみたが、あまりうまいものではなかった。その後経済の成長にあわせるかのように急速にすたれてきて、ウイスキーの「水割り」が主流をしめるようになった。ウイスキーも高級なものになってきたので炭酸でごまかす必要がなくなったのだろう。
ところが一旦すたれたハイボールが復活してきているという。思うに今や最大の勢力を誇る団塊の世代が、かつての青春期を懐かしく思って復活させているのではないだろうか。実は自分も先日家で飲む水割りをハイボールにしてみたが、遠い昔の青春期の思い出と重なって懐かしくもほろ苦い味がした。

稲刈りと秋祭り

平成17年9月27日(火)
朝夕は結構涼しくなり秋も深まってきたようだ。これからしばらくは最もいい季節になる。天高く馬肥ゆる秋、スポーツの秋、祭りの季節。
田舎育ちの私はこの季節になると稲刈りと秋祭りを思い出す。家が農家なので中学3年までは稲刈りを手伝っていたがその後は機械での取り入れになって手伝わなくてよくなったのはありがたいことであった。稲は鎌を使って刈っていたが結構しんどい仕事である。刈り方は3列並んだ畝を同時に刈りながら進んでゆく。刈り取ってできた場所に稲を置き、ちょうど一束になるようにしておく。それをわらしべを使って結んでいくのは大人の仕事である。全部刈り取ると稲を乾かすために杭を打ち込んで太く長い竹ざおを渡して稲を掛けてゆく。朝から仕事を始めて待ち遠しいのが昼飯である。いま刈り取ったばかりの稲に座って握り飯を食べ沢庵をつまむ。卵焼きや鶏のから揚げなどもあったがこれが実にうまかった。普段は家に帰って食べるのだが時には田んぼで食べることもあったのだ。
取入れが終わると秋祭りである。小さいながら神輿が村をまわり神社には屋台が出る。子供の頃はここで玩具や菓子を買うのが大きな楽しみであった。もっとも祭りも次第に尻すぼみになって今ではどうなっているのやら。

「麻呂」は愛いやつ

平成17年8月20日(土)
我が家では愛犬「麻呂」号を暑さしのぎのために玄関の中に入れてやっていたが、三和土(たたき)から上にはあがってこない。外に出すと中へ入れてくれと玄関の戸に体当たりをするので、入れてやると満足している。愛(う)いやつだと安心していたら、先日勝手にうえに上がり、気がつけば二階から階段を降りてくるではないか。麻呂は自分も家族の一員(人)だと思っているので皆と同じようにあがってきたのだろう。かわいそうだが叱りつけて元の玄関先に戻してしまうと、初めはいやがっていたがじきにあきらめておとなしくなった。あきらめが早くやはり愛いやつである。
今日は午前中は忙しかったが午後はのんびりしていたので、紹介状の返事など書類がゆっくり書けてよかった。

夏は元気のない「麻呂」

平成17年7月20日(水)
梅雨明け宣言が出て本格的な夏になった。毎年この時期は我が家の愛犬「麻呂」はぐったりとして元気がなくなる。今年は数日前から下痢しておりいっそうだるそうである。ビオフェルミンを飲ませてみたり、抗生物質の投与を考えたりしているがこの暑さでは仕方がないのかもしれない。室内ならクーラーが効いて快適だろうがあいにく屋外犬である。玄関脇で庇とビーチパラソルで十分日陰になるようにしているが分厚い毛皮は暑さには敵となるのだろう。打ち水をしたり水を入れたバケツをおいたり、家族は色々と気を使っているようだ。なにしろたいていの犬好きの人からは「性格のいい犬だ」といわれて喜んでいる我が家の癒し犬なのである。はやく元気になって欲しいものである。

田植えの頃

平成17年6月18日(土)
梅雨に入ったはずなのに雨が降らない。これでは田植えができないのではないだろうか。
私は実家が農家なので、中学までは田植えや稲刈りは必ずしなければならない仕事だった。なにしろ小学校では「農繁休暇」が年に二回、田植えの時期と稲刈り の時期にあったのだから。周囲は皆農家ばかりなので違和感はなかったが、たまに勤め人の家の子供は手伝わなくても良いので、遊んでいるのがなんともうらや ましかった。こんな純農家出身の医者は少ないようで、私自身ほとんど見たことがない。わずかに先輩に一人、実家に田があるという話を聞いたことがあるぐら いである。したがって貴重なトキのような存在ではなかろうか。もっとも今は、田植えも稲刈りも機械でするようになったので、子供が手伝うことはなくなった のだろうが。
そういえば学生時代、半農半医の先生を見たことがある。アルバイトで薬の使用のアンケートをお願いしていた関係で二ヶ月ごとに訪ねていたが、地方の大きな旧い家で、 「○○醫院」と墨書された古びた看板のある医院用の入り口と、農家用の門が別々にある土塀の屋敷であった。訪ねると先生はたいてい畑仕事の格好で、あらか じめ記入した調査用紙を渡してくれたが、患者さんの姿を見たことはほとんどなかった。今から思うとあの先生は達人の生き方をされていたのかもしれない。 もっと話を聞いておけばよかった。

故郷のU先生

平成17年5月25日(火)
私の故郷の村には2軒の医院があった。今では1軒は廃業しており、もう1軒は息子さんがあとを継いでいるとか。息子さんが跡を継いでいる医院のU先生はもう90歳ぐらいになっておられると思う。子供の頃から何かあると診てもらいに行った。祖母は心臓が悪かったのでいつも往診してもらっていた。まさに地域に根付いた大切な医院であった。今から考えると思慮が足りなかったと思うのだが、医学生の頃はそういう先生を田舎医者だと考えて、今自分たちが学んでいる最新の医学が優れているなどと不遜にも思っていた。
今になると、最新の医学を知ろうが知るまいが人間の寿命に大差はなく、病める人にやさしくできる人が医者になるべきだとわかる。きっとU先生はやさしい先生だったのだろう。もし機会があればお会いしてお話を聞いてみたいと思う。