カテゴリー 思い出

「福太郎」の衰弱

平成27年6月12日(金)
このところ朝夕の散歩のとき、ぶさいく犬「福太郎」はしばしば足を止めて動かなくなっていた。それでもしばらくするとまた普通に歩きだして、公園の中の草花のにおいをかいだりマーキングにいそがしそうだった。ところが4~5日前から少し歩いてもしんどそうで、今まで通っていた公園にはもう行くことができなくなった。そこで近所の小さな公園をぐるっと回ることにしたが、それもできなくなってしまった。
推定年齢14歳なので仕方ないと思うが腹水がたまっているらしく、何も食べず水を少し飲んでじっとしている。今朝は玄関を開けるといつもの散歩を思い出したのだろうか、よろけながら立って尻尾を振っているがそれ以上は動けないようだった。かわいそうだが見守るしかない。苦しんでいるようには見えないのがせめてもの慰めである。亡くなったら骨の一部を田舎の父の墓の近くに埋めてやろうと思っている。父が10年以上飼って一人暮らしの時期も支えあっていた愛犬だったから。

先輩の送別会

平成27年5月23日(土)
古巣である中電病院のH先輩が定年のため病院を退職することになり、病院産婦人科の送別会にO.B.として出席した。先輩は私が病院を辞めて開業する1年前、今から約19年前に赴任して来られた。誰に対しても態度を変えない、誠実でフレンドリー、実力のある人物で、開業後ずいぶん助けていただいた。すぐに入院が必要な患者さんや、診断の難しい患者さんなど困った時に先輩であるH先生に相談すると、快く引き受けてもらって実にありがたかった。
現部長が企画して開いたこの送別会は心のこもった素晴らしい会であった。病院のスタッフにH先輩がいかに頼りにされ慕われていたかが感じられて、気持ちよかった。
周辺の病院から一人またひとりと先輩たちが定年で退職して行く。これで各病院の部長は同期か年下になってしまった。開業してもう18年になろうとしているのだから皆年を取るのも無理ないことである。
年年歳歳花相似たり 歳歳年年人同じからず

あの世へ旅立った父

平成27年1月9日(金)
仕事始めの5日、郷里のホームに入所していた父が亡くなった。92歳の誕生日を目前にした大往生であった。9年前に母が亡くなった後、元気に一人暮らししていたが、昨年の6月頃から次第に衰弱してきて11月には入院、どこも悪くはないが食が細くなってこのような結果になった。長兄が喪主となって、親族と近所の人たちだけの小さな葬式をしたが、その土地に生まれ、育ち、農業で自分たち兄弟を育ててくれた実直な父にはふさわしいのではないかと思った。近所の人、特に親族の人たちの助けは本当にありがたかった。
父の飼っていたぶさいく犬「福太郎」は元気で、殉ずる様子は皆無である。合掌。

奈良国立博物館

平成26年7月25日(金)
久しぶりの移動可能な連休だったので、奈良国立博物館の特別展「醍醐寺のすべて」を見に行くということで計画を立てた。まず和歌山にいる息子のところを訪ねてから夕方、奈良に行くことにした。彼の入学以来、紀三井寺を訪れるのは5年ぶりである。大学と附属病院を案内してもらい、おすすめの店でおいしい昼食、和歌山城見学まで付き合ってくれた。夕食は奈良唯一の三ツ星「和やまむら」が偶然予約できたのでカウンターで食したが、胃の調子があまり良くなく日本酒が飲めなかったのは残念だった。
翌日は涼しいうちに春日大社を散策し奈良国立博物館へ。特別展は、国宝と重要文化財がこれでもかというほど展示されており、世界文化遺産にも指定されている醍醐寺の歴史に圧倒された。三条通りを歩いていると「うなぎ川はら」ののれんが見つかり、久しぶりのうなぎに舌つづみ。あまりに暑いので奈良公園の木陰で一休みしたが、風がよく通って心地よく思わず眠ってしまった。夕方、京都伊勢丹で菱岩の弁当を受け取り新幹線で帰広。弁当は菱岩が群を抜いていると思う。このところ予約すらできなかったのが、久しぶりに手に入ったので日本酒とともにおいしくいただいた。いい旅であった。

賑やかな一日

平成26年5月2日(金)
日曜日、岡山の友人夫妻が娘さん夫婦と孫2人を連れて我が家へ遊びに来てくれた。友人家族とは子供たちが小さい頃から毎年のように家族旅行をしていたので親戚のようなものである。次女が孫2人をつれて久しぶりに里帰りをしているので、皆で集まって旧交を温めようという算段である。近くに住む長女夫婦も2人の孫を連れてきて親・子・孫総勢15人、広くもない我が家は満杯である。6畳の和室2部屋のふすまを取っ払って子供や孫たちの宴会場所に。我々はダイニングルームでビール、ワイン、日本酒、昼前から夕方まで延々と談論風発。時々孫たちが歓声を上げて走りこんできたり、賑やかなひとときを過ごした。
友人一家と初めて一緒に旅行に行った時には子供たちはまだ小学生にもなっていなかったのに今は結婚してその当時と同じくらいの子供がいて宴会をしている。人生はくり返しくり返し過ぎていくというが、まさにそう思えるような感慨深い一日であった。

お盆休み

平成25年8月17日(土)
今年の盆休みは次女の里帰り出産後と重なって、久しぶりに我が家にほぼ全員がそろっての宴会、その後の花火もできてにぎやかであった。いつも「乾杯」しているので、先日2歳になった次女の長男もすっかり覚えてしまって、「乾杯!」と言えば吸い口のついたお茶のボトルを持ってまねをするようになった。近くに住んでいる長女の子供たちと一緒に走り回って幼稚園のようである。皆が集まって楽しく過ごすことができるのは、本当にありがたいことである。でも、いずれこのような機会は持てなくなるだろう。とりあえず今、この時を大切にして日々過ごして行きたいと思う。

孫誕生と演奏会

平成25年7月4日(木)
お産のために里帰りしていた次女に無事男の子が生まれた。二人目なので大丈夫だろうと思っていたが、予定日が近づいても陣痛が来ないのでどうかいなと思っていたら予定日の朝、陣痛が来て入院2時間後に生まれた。早速、昼休みに病院へ。今回は私の勤務していた中電病院にお願いしていたので勝手知ったるところ、久しぶりに分娩室に入ったが感慨深いものがあった。母子ともに元気なことに感謝、これで孫は4人になった。
翌日は尺八の演奏会(発表会?)、今までは複数で吹いていたが今回は初めての単管(一人で吹くこと)である。三弦に合わせて地唄を吹くことになっていたが、なにしろ舞台では緊張するしちゃんと音が出るだろうかと心配していた。孫の誕生の勢いを借りてなんとか演奏できたのは幸いであった。私の拙い演奏を聴く人には申し訳ないが、舞台で吹くのは結構気持ちよいものである。やみつきになりそうだ。

鹿児島から博多

平成25年5月2日(木)
連休の前半に、かねてより乗ってみたかった九州新幹線さくらで鹿児島へ行った。2時間半の旅であるが、車内は1列4席なのでゆったりとして快適である。維新ふるさと館で鹿児島の歴史を学んだ後、レンタカーで城山に登り市内から桜島を一望、フェリーで桜島へ。フェリーのうどんが美味いとの情報で1杯550円の天ぷらうどん、だしが効いてじつに美味であった。島内をドライブ、絶景ポイントがいくつもあったが、なんといっても噴煙を上げている桜島の姿は活火山だと実感させられる。
大隅半島経由で霧島神宮を訪れる。やたら若者のカップルが多いのが不思議だったが、九州一のパワースポットとのことで納得。夕刻本日の宿、妙見温泉「石原荘」に到着、早速温泉に入る。今回の鹿児島行きはこの宿の予約が取れたからでもあるが、天橋立の文殊荘とは違ったもてなしと美味しい料理であった。敷地内の山中に「熊襲の穴」と呼ばれる巨大な洞窟があり日本書紀に記載されているとか…
翌日は車で九州自動車道から阿蘇へ、火口まで行くことができたが、なるほど九州が「火の国」と呼ばれるわけである。夕方博多着、阪急デパートの地下で干物を仕入れてお薦めの居酒屋「ひろ家」で一杯飲んで新幹線、目が覚めると広島だった。気候もよく絶好の旅日和であった。また行こう。

東山の紅葉・風俗博物館・エルミタージュ美術館展・「吉膳」

平成24年11月24日(土)
木曜日の午後から京都に行ってきた。薬屋さんの雑誌に風俗博物館が紹介されていて、ぜひ見たいと思ったからである。京都に3百年続く、僧衣や十二単(ひとえ)などの衣装を作っている老舗「井筒」が始めた博物館で、現在は「源氏物語の世界」と題して、当時の建物から人物・衣装・牛車・小物などを4分の1の大きさで精密に再現している。私が動けるのは日曜祭日しかないのに、この博物館は私設のせいなのか日曜祝日は休館となっている。仕方ないのであきらめていたら、たまたま昨日金曜日が祝日で前日の木曜日は午後からは休診。これは何とかなりそうだと調べてみたら、午前の診療終了後すぐに出発すれば午後3時台には京都まで行けることがわかり急遽出かけたわけである。
展示物は精緻を極めており、「明石の姫君の婚礼支度」など時代考証をきちんとしているとのことで、実に興味深かった。あまり知られていないのか人も少なくじっくり見ることができた。夜は祇園の「吉膳」で旨い地酒と料理を堪能した後、すぐそばにある高台寺のライトアップを鑑賞した。人が多すぎるのが気になったがライトアップされた紅葉の美しさには目を見張った。
翌日は「青蓮院」「エルミタージュ美術館展」「永観堂」哲学の道散策、「真如堂」など紅葉を楽しみ「辻留」の弁当を買って帰り家で一杯やるという充実した小旅行であった。

歌劇「真珠採り」

平成24年11月9日(金)
久しぶりにビゼー作曲の歌劇「真珠採り」のCDを聴いてこの曲との「出会い」を思い出した。
学生時代、ガラにもなく大学男声合唱の指揮をすることになり、自分の能力のなさゆえ悪戦苦闘していた。当時の大学生男声合唱の最高峰は慶応義塾ワグネルソサエティーであり、あこがれの的であった。その第99回定期演奏会が東京と大阪で開かれることを聞きつけ、仲間たちと大阪へ聴きに行った時の衝撃は忘れられない。
専任指揮者はなんと音楽界の重鎮の畑中良輔氏、顧問指揮者は木下保氏で、彼らの紡ぎだす音楽はとても学生の演奏とは思えないほどすばらしかった。その中で学生指揮者・秦実氏のワンステージが歌劇「真珠採り」であったのだ。ピアノ伴奏も慶応の学生で、テノールとバリトンのソリストの掛け合いも素晴らしく、何より最後に歌った有名な「耳に残るは君が歌声」は感動を通り越して、以後すっかりファンになってしまった。
それから30年、開業してしばらく経った頃偶然インターネットで「第99回定期演奏会」の復刻版CDを限定作成し関係者に実費で配っていることを知り、懐かしさゆえぜひ自分にも分けてほしいと連絡したところ、当時学生指揮者で今は会社務めをしておられる秦実氏よりメールをいただいた。「…学生指揮をしていた当時、木山さんより合唱指揮をどのようにしたらよいのかという、指揮に関する問い合わせの手紙をいただいたことを思い出しました。そういえば大阪の定期演奏会のとき花束をいただきましたね…私の所にCDはあと1セットだけ余分があるのでお送りします…出会いは何度もおきるものですね」という感動的な文章であった。確かに当時ショスタコービッチの合唱曲を練習していて行き詰っていて、この曲を演奏していたワグネルに手紙を書いたことを思い出した。
もう一度、分けていただいたCDで「真珠採り」を聴いてみたが、当時のことなどがよみがえってしみじみとしたことであった。