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横綱朝青龍に見る文化の違い

平成19年8月6日(月)
産経新聞に石原慎太郎氏が「日本よ!」と題したエッセイを月一回載せているが、その中で今回の横綱朝青龍の仮病ーサッカー問題を、外国との文明の衝突であると書いていたが、まことにその通りであると思う。
相撲は日本の国技であり地位が上がれば上がるほど「品格」が求められるという日本古来の伝統がある。対して横綱の故国では別の伝統的基準があり、その基準ではおそらく今回のことは問題ないのだと思う。だから故国でのインタビュウーでは、その国の人々は今回の横綱に対する相撲協会の処分に強い非難のメッセージを寄せたのは当然だろう。国技に外国人を入れた時から、このような問題が起こるのは避けられないことが予見できたと思うが、相撲人気の衰えや新弟子不足から協会も背に腹は代えられずに外国人力士を入れたのだろう。
たとえ日本人であっても、日本独自の伝統的な考えからはみだす行動をとれば袋叩きに逢い、それに従わない限り抹殺される。まして外国人であれば初めは黙って見ていても、日本人の考えの基準にそぐわない行動が目に余るようになれば排除されるだろう。そしてこれらのことをだれもおかしいと思わず、当然であると心から考えるのは、それだけわが国の伝統的考え方が強固であることを証明しているのである。

薬を出し過ぎる施設

平成19年8月2日(木)
当院に来られる患者さんの中には、他科で薬をもらっている人も多いが、薬の種類や量について施設によってかなり違いがある。たくさん(馬に食わせるほど!)出すところはだいたい決まっているが、そういうところの処方には重複がみられることがある。仔細に調べてみると薬をすべて止めても差し支えないと思われる場合もある。患者さんが訴える症状に対する薬を出して、その薬の副作用を抑える薬を出して、更にその薬の副作用を抑える薬を出して…と、きりがない。そもそも薬を出そうが出すまいが結果が変わらないような状態もあるわけである。
そこで、「薬を減らしてもらったら」と言っても本人からはなかなか言い出せないようだ。当院で1種類だけ必要な薬を出そうとしても「先生、これだけ薬を飲んでいるのでこれ以上飲めません」と言われてその種類と量に驚くが、必要なのに困ったことである。こういうのを見ると、政府が薬価差益をなくしたくなる気持ちもわかる気がする。「6種類以上の薬を出すのは犯罪である」という医師もいるが、本当の意味での薬の効果を見直す必要があると思う。

父親へのレクイエム

平成19年7月26日(木)
久しぶりに中島みゆきのCDを聞いてみた。初期のアルバム「臨月」の中に「雪」というとても美しい曲がある。「雪 気がつけばいつしか/なぜこんな夜に降るの/いまあのひとの命が/永い別れ私に告げました…」これは彼女が24歳のときに亡くなった父親へのレクイエムだということを最近知ったので、もう一度聞いてみようと思ったのである。ちなみに中島みゆきの父親は北海道帯広の産婦人科開業医であった。発表した当時この曲を聴いた時には、慕っていた恋人を想って作った空想の中の作品だとばかり思っていたが、父親へのレクイエムとわかって聞くと改めてしみじみといい。
昔、ラジオの深夜放送を聴いていた頃、吉田拓郎がパーソナリティをしていた番組で「昨日親父が亡くなりました。歌を作ったので聞いてください」と言ってギターを弾きながら唄ったのが「おやじの唄」で、感動的であった。同じ頃、森本レオの「親父にさようなら」というモノローグの曲も、父親に対する深い愛情が感じられてよかった。津村信夫の詩集「父のいる庭」も読みかえしてみると本人が35歳で亡くなっていることを考えると、いっそうなんともいえないあじわいがある。

山口瞳著「行きつけの店」

平成19年7月18日(水)
作家の山口瞳氏が亡くなって10年以上経つが依然として根強い人気がある。彼の著書で最も好きなのは「行きつけの店」で、贔屓の店を中心にして氏の人間関係、付き合いをエッセイ風に書いて味わい深い作品である。高倉健が主演した「居酒屋兆次」のモデルになった店もこの中にあった。「縁」を大切にする作者の心意気があらわれていて、どれも一度は行ってみたいと思う店ばかりである。
先ごろ金沢に行った時も作品の中にあった「つる幸」をまず予約し、その後代替わりしているとの情報から先代の弟子の「つる屋」に予約を変更した経緯がある。倉敷、長崎にも作品に書かれた店があり機会があれば行ってみたいものである。
最近、山口瞳夫人が「瞳さん」という本を出した。これは最も身近な妻の立場から見た作家の姿が描かれており興味深い。そういえば壇一雄夫人の話を聞いて沢木耕太郎が書いた「壇」という作品もあった。いずれも作家の等身大の姿をありのままに表していて魅力的であるが、生きているときには書けないのだろうと思う。

健診大国日本!

平成19年7月10日(火)
日本は定期健康診断大国で、職場健診は5千万人、住民健診は1千万人、人間ドックも2百万人以上の人が毎年健診を受けている。問題なのは定期健診を受けていても健康になったり寿命が延びるデータ的根拠がないことである。定期健診が有効かどうか確かめるためにはくじ引き試験が必要だが、残念ながら日本では行っていない。そこで、他国の試験を参考にしたらどうなるだろうか。
米国で1万人以上の35~54歳の男女を集め、無作為に二つのグループに分け、一方は日本の人間ドックとほぼ同じ健診を毎年受けるようにし、他方は何もせず放置したところ、7年間の両者の死亡数に統計的有意差はなかった。英国でも7千人規模で同様の試験を9年間行ったが、健診群と放置群の死亡数に差がなかった。その結果、健康診断には有効性がないと結論され、英国では日本のような定期健診は行われていない。
さらに、ライフスタイルを改善すると長生きできるのかというくじ引き試験がフィンランドで行われた。40~55歳の会社の管理職の男性で、みたところ健康だがコレステロール値が高いとか血圧がやや高いとかタバコを吸うとか何らかの問題のある1200人を選び、くじを引いて2つのグループに分け一方は何もせず放置するが、他方は医者がライフスタイルに介入した。介入グループには4ヶ月ごとに医者が面談し、食事指導、運動量を増やすためのプログラムをわたす、禁煙の指導をする、必要あれば降圧剤などの薬を出すなど、5年間にわたってフォローし、さらに10年間両グループの生死を調査した。その結果、心臓死は介入群の方が多く、がん死は介入群が少なく、総死亡数では統計的有意差はないものの介入群!の方が多かった。
これらの結果をみると、医師は健診などは極力ひかえ、症状のある人の治療に全力をあげるべきである。医師の本来の役目は病んでいる人を癒すことである。病む前に見つけた方がよいのではないかという予測で始まった健診が、実は意味がないことが次第に明らかになってきた以上、その事実を広く知らせて健診などにまわす人手があるのなら今病気で苦しんでいる人に集中する方がいい。行政や企業も健診に出すお金を介護に回せば今よりもはるかに人のためになるのである。

小学校から和楽器を

平成19年7月6日(金)
尺八を始めるまでは、この伝統芸能にいろいろな流派がありその流派がまた細かく分かれているなどとはつゆ思わなかった。細かく分かれているわりには全体の人数は少なく、それでは発展のためには不利だと思うのだがそうなる理由があるのだろう。
尺八自体はすばらしい楽器であり歴史を経た芸能であるのにどういうわけか人気がない。西洋楽器と比べると手軽でないことと、音が出しにくいことがあるが、なんといっても明治の初めに教育音楽から和楽器・和楽(民謡を含む)をなくして、西洋音楽を取り入れたために親しみがないことが大きいだろう。かくいう私も和楽のよさがわかったのは最近のことで、小さい頃から西洋音楽一辺倒だったから和楽のどこがいいのだろうと思う気持ちはよくわかる。小さい頃から親しんでないととわからないのは当然で、やはり初等教育に取り入れるべきだと思う。

輪廻転生は真実

平成19年6月30日(土)
早いもので今年も半分が過ぎてしまった。誰かが書いていたが、我々の体はすべて地球上の物質からできていて、最後は土に還る。そしていずれは植物の栄養となり、その植物を摂取して人間を含めた生物が生きてゆく。つまり、地球上で物質のリサイクルしていることになる。我々の体は単なる遺伝子の乗り物だというが、生物の生き延びようとする意思はどこから来ているのかという疑問がある。そして、生き延びる意思が生物の体を借りているということが本質であり、意思そのものが存在するのではないかという。
なるほどそうかもしれない。さらにそれが本当なら実体はなくても意思そのものがこの地球上を飛びかっていることになる。これは輪廻転生の考えに近いが、このような視点で世の中を眺めるのは楽しいことである。

稲作の大切さ

平成19年6月26日(火)
先日、久しぶりに実家に帰ってみたら、家の周囲の田には水が湛えられ整然と稲の苗が植えられていて、昔からなじんだ風景が広がっていていいものだった。
多くの食物を輸入にたよっている我が国で、自給できる農作物といえばなんといっても米である。世界中で主食となっている穀物は、小麦、米、とうもろこし、いも、などがあるが、総合的に見て米が一番だと思う。稲は高温多湿の日本に適した植物であり、稲作を通じてわが国特有の共同体が確立してきたのである。問題は米の値段が安すぎて、米を作ってもほとんど利益がないことである。加えて田舎には農業を継承する若者が少なく、稲作をすることが難しくなっている。だからといって手入れをせず田を放置すると、雑草などのため周囲の田に迷惑がかかる。稲作がなくなることはないだろうが、かなり難しい状況になっているようである。

東京に温泉?

平成19年」6月21日(木)
ニュースによると東京の温泉関連施設で爆発があったとのことである。わが国では温泉という名称があれば人が来てくれるので、東京のようなところでも地中深く穴を掘って無理やりお湯を出せば温泉として売り出すことができる。今回の事故の温泉はなんと地中深く1500m掘ったところの泉源からひいたもので、同時に出るガスがたまって爆発したそうである。
地球の内部には熱いマグマがあるのだから、どこを掘っても必ず温泉は出てくる。なにを血迷ってわざわざ地下深く穴を掘って無理をして温泉と称して人を集めるのだろうか。温泉なんてもとは自然にあふれて出たお湯を利用することで、施設として成り立ってきたものである。最新の技術を使わないとできないようなものは温泉とは言えない。地下水が地熱で温まったお湯も、水道水をボイラーで温めたお湯も同じようなものである。利用者である我われがこんなまがい物には近づかなければよいのである。

梅雨入り

平成19年6月15日(金)
入梅してうっとうしい日が続く。朝は雨が降っていないので自転車で行くと、帰りは雨になってバスで帰宅することもある。その場合は翌朝は自転車通勤できない。なんだか損をしたような気持ちがするのが不思議である。
昨日は市内某ホテルでHPV(ウイルス)と子宮がんの講演があった。子宮頸がんの原因がHPVによることがいまや常識になってきたが、実際のところHPVの感染があったらどれくらいの率で浸潤がんになるのかというと、0,1%だそうである。もっと高いかと思っていたが意外に少ないのである。そもそもウイルスの感染だけではがんは発症しない。その後、いろいろな条件が重なってがん化するのである。さらに、HPVの感染が最も多いのは10代20代で、以後減っているのは自然治癒があるからである。欧米ではワクチンが使われ始めたようだが、日本ではどうだろう。費用対効果を考えると悩ましいところである。