平成19年10月3日(水)
先日、ひろしま美術館で開催されている「野田弘志展-写実の彼方に-」に行ってきた。リアリズムを追求したその作品群は、一つひとつが思わず足を止めていつまでもじっくり見たくなる作品ばかりである。まともに鑑賞したら一日ではすまなそうである。以前、田中一村の作品集を見たとき以上の驚きがあった。この作品展は全国5箇所で行われてきたそうだが、その最後の開催地が広島だったことは、野田氏の本籍が広島県でありさらに広島市立大学の教授をしていた関係だろうが、ありがたいことである。これだけの作品を一堂に集めることはなかなか難しいのではないだろうか。今度はいつ見られるかわからないので、開催最終日10月21日までにもう一度行ってみようと思っている。
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野田弘志展
酒はうまい
平成19年9月29日(土)
アルコールに弱いくせに好きで、このところ冷酒がじつにうまい。イカの塩辛や塩うに(福井市、天たつの越前雲丹は絶品である)などをさかなに飲むと、しみじみ日本に生まれてよかったと思う。元来アルコールに弱いので多くは飲めず、少ない量で満足できるのはありがたいことである。初めに飲むのは「とりあえずビール」で、特に汗をかいた暑い日に飲むと、ビールを発明した人にはノーベル賞をあげても追いつかないと思えるほどうまい。
父親はアルコールを受けつけない体質で、実家には酒というものがなかった。たまに「赤玉ポートワイン」と「養命酒」があったように記憶しているが、なにしろ酒に縁のない家だったと思う。それが我が家にはビール、発泡酒、冷酒、ワイン、ウイスキー、焼酎など一通りそろっているし、みな勝手に飲んでいるようである。特にビールと日本酒の消費が多いのは好みから当然である。いつまでおいしく飲めるかわからないが、できれば永く飲んでいたいものである。
中島義道著「うるさい日本の私」
平成19年9月24日(月)
哲学者中島義道氏の「うるさい日本の私」という著書がある。彼はウイーン大学での留学を終えて帰国した途端にさまざまな場所での放送音に悩まされるようになる。曰く、「列車が入ります、危険ですので白線の内側まで下がってください」とか、ATMの機械では「毎度ありがとうございます…操作ボタンを押してください…ありがとうございました」など、欧米では皆無のおせっかい放送が耳について仕方ないというのである。さらに、道路わきには「暴力追放宣言都市」だとか「交通安全宣言都市」などなんの意味があるのかといったポスターがべたべた貼られているの見るにつけ、これらの意味があると思えないものに違和感を覚えるのであった。
以来十数年、改善すべく孤軍奮闘してきたけれど日本ではいっこうにこれらのおせっかい放送やおせっかいポスターがなくならないのである。ついに、同様の違和感を持つ哲学者加賀野井秀一氏と共著で「うるさい日本を哲学する」という本を出すに至ったのである。
ドラリオンとおくむら
平成19年9月18日(火)
連休を利用して「ドラリオン」を観に大阪へ行き、京都をまわってきた。ドラリオンはカナダのシルク・ド・ソレイユが世界各地で行っている体操演技を思わせるようなショーで、今回は中国雑技団を連想させる演技が見られた。よくぞここまでできるものだと感心しきりであった。実は以前同じ集団の「アレグリア」も観ているが、前作とは違った面白さがありレベルの高さが感じられた。
京都はまだまだ暑いので、午前中早めに嵯峨野をまわり昼食は予約しておいた「西洋膳所おくむら」一乗寺本店でランチをとったがこれが最もすばらしかった。味、コストパフォーマンス、接客態度、すべて最高で、味にうるさい人にも薦められる。また京都に来る機会があれば次回は夜にぜひ訪れたいと思ったことである。
広島の不思議
平成19年9月8日(土)
広島に住んで16年になるが、どうしてもわからないことが三つある。
一つは広島空港が本郷に移ったことである。ビジネスも含め、最も必要とするのは広島市内の人である。空港が狭いのなら沖へ伸ばせばはるかに少ない費用でできるし、広島の発展のためになったはずだ。本郷に空港ができたとき、週刊新潮に「天下の奇港」という揶揄した記事が載り、心底そう思ったことである。発展する都市は近くに空港を持っている。神戸などはわざわざ新しく海上に造ったのに、広島はせっかくあったものをなにを血迷ったのか山奥へ移転してしまった。本当に広島のことを考える人間なら絶対に湧いてこない発想である。
二つ目は広島大学を東広島に移転させ、跡地利用に困ってなんと!マンションが建つということである。今までの場所が手狭なら、建物を高くすればよいしそのほうがはるかに安くできたのに。その都市を代表するような大学は少なくとも中心都市にあったほうがいいのは常識である。
三つ目は現在進行していることだが、広島市民球場の移転である。われわれ素人には移転する理由がわからない。ヤード跡地を利用するためというが、今の場所で補強して使うことも可能という専門家の意見もある。これもまず初めに移転ありきということか。球場の移転はまだご愛嬌という部分もあるが、前の二つは将来にわたって広島のためにならないと思うのである。
無常を感じる季節
平成19年9月3日(月)
昼間は結構暑い日もあるが、朝夕は涼しくなってきた。9月の後半から10月一杯が一年中でいちばんいい季節である。豊穣の秋であり、同時にもの悲しさを感じる季節でもある。不思議なことに冬になってしまうとそういう感傷はなくなる。秋、それも晩秋に特にそう感じるのである。多くの詩人がこの心境を詩に残している。
私の場合はさすがに感傷はないが、平家物語の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」とか、般若心経の「色即是空、空即是色」はなるほど真実だとしみじみ思うのだ。どんなに盛んに見えても必ず終わりが来る、そして人は必ず死ぬ、まさに世は無常なのである。そう思わせる季節になったということである。
議員の人相
平成19年8月28日(火)
昔から手相、人相などの占いを信用していなかった。でも、いつの頃からか手相はともかく、人相はその人物を表していると思うようになった。特に人は中年以降になるとそれまでの生きてきた内容が顔に表れてくる。だからどんなに取り繕っても、しばらく話をするとその人となりがわかってしまう。さらにいえば、直接話をしなくても表情や話し方からでもある程度のことはわかると思う。
今回の参議院選挙で当選した議員の中には、どうみても国会議員にふさわしいとは思えない人もいた。もちろん会ったことも話したこともないけれど、マスコミに露出することの多い人なのでテレビに映る人相からそう感じたわけである。多分多くの人もそう感じたと思うが、選挙では知名度が高ければそれだけで当選するという民主主義(自由選挙)の最大の欠点があらわになったということである。民主主義はともすれば衆愚政治に陥りやすいが、独裁政治よりはましである。多少間違った選択をしても、時が解決してくれることだろう。
子宮がんの原因
平成19年8月22日(水)
世界中の子宮がんを調べたところ、その7割にヒト・パピローマウイルスが確認され、子宮がんの原因はHPVであることが認められた。さらにそのうち16・18型のウイルスが問題であることがわかり、ワクチンが作られた。欧米では10代初めの女児にこのワクチンを接種しようとする動きがある。ワクチン接種によりどれくらい防げるのか、副作用はどうか、対費用効果はどうなのかなど不明な点は多い。現在のところはわが国ではすぐにワクチン接種の動きはないが、たとえ欧米である程度効果があったとしてもどうだろうか。
HPVはセックスで感染するウイルスであり、たとえ16・18型の感染があっても、必ずしも癌になるわけではない。ウイルスの関与しない子宮がんも少なからずみられる。さらにわが国と欧米諸国とのエイズの感染率の違いをみてもわかるように、日本人の性活動はおとなしいので欧米の真似をする必要はないと思う。あわてることなくじっくり様子を見てから考えても遅くない。
猛暑
平成19年8月17日(金)
お盆休みが終わって今日から診療開始である。ここ数日の暑さは例年になく激しく、まさに猛暑という言葉がふさわしい。なんでも観測史上最高気温を記録したとか。熱中症による死者も少なからずみられたようである。街中での暑さはことに強烈で、アスファルト、車の多さ、エアコンの数などが原因となっているのだろうがまことに強烈である。
こんな時は昼間は出歩かず屋内でのんびり昼寝でもしていた方がいい。スペインにシェスタという習慣があるのは理にかなっている。確かにあの国ではシェスタの時間はほとんどの店はしまっているし、人通りも少なくなっていたように思う。国民性といえばそうなのだろうが、日本人はこんなときでも一生懸命働くだけでなく、テニスをしたり遊んだりする。実に勤勉な民族だと思う。
横綱朝青龍に見る文化の違い
平成19年8月6日(月)
産経新聞に石原慎太郎氏が「日本よ!」と題したエッセイを月一回載せているが、その中で今回の横綱朝青龍の仮病ーサッカー問題を、外国との文明の衝突であると書いていたが、まことにその通りであると思う。
相撲は日本の国技であり地位が上がれば上がるほど「品格」が求められるという日本古来の伝統がある。対して横綱の故国では別の伝統的基準があり、その基準ではおそらく今回のことは問題ないのだと思う。だから故国でのインタビュウーでは、その国の人々は今回の横綱に対する相撲協会の処分に強い非難のメッセージを寄せたのは当然だろう。国技に外国人を入れた時から、このような問題が起こるのは避けられないことが予見できたと思うが、相撲人気の衰えや新弟子不足から協会も背に腹は代えられずに外国人力士を入れたのだろう。
たとえ日本人であっても、日本独自の伝統的な考えからはみだす行動をとれば袋叩きに逢い、それに従わない限り抹殺される。まして外国人であれば初めは黙って見ていても、日本人の考えの基準にそぐわない行動が目に余るようになれば排除されるだろう。そしてこれらのことをだれもおかしいと思わず、当然であると心から考えるのは、それだけわが国の伝統的考え方が強固であることを証明しているのである。