平成26年4月25日(金)
国賓としてオバマ米大統領が来日しているが、初日の夜は安部首相が以前この欄にも書いたミシュラン三ツ星の鮨店「すきやばし次郎」でもてなし、オバマ大統領をして「生涯最高の鮨だった」と言わしめたという。その際に供された日本酒は広島が誇る西条の酒、金の花びら入り「加茂鶴ゴールド」で、お土産は山口県の酒「獺祭」と江戸切子のグラスだった。
いい水といい米、受け継がれてきた酒造りの伝統技術のおかげで、日本の風土に合った日本酒が飲めるのは幸せなことである。どれもうまいが数ある酒の中から「加茂鶴」と「獺祭」が選ばれたことは、じつにうれしく名誉なことである。西条にはいい酒を造っている醸造元は他にもたくさんある。これからもいっそうおいしく飲めると思えば頬がゆるむ。
カテゴリー 日誌
すばらしい西条の酒
生物には「むだ」がない
平成26年4月17日(木)
先日の新聞に、大阪大学の研究によれば、いままでは退化器官で必要がないと思われていた虫垂に腸内の免疫をつかさどる役目があることがわかった、という記事があった。学生時代には虫垂は退化器官でいずれ無くなるだろうと教わった記憶がある(ニワトリの虫垂は大きくて消化に役立っているようだとも教わった)。
必要のないものなら無くなっていてもいいはずの「虫垂」があるのは不思議であった。きっと何かの役割をはたしているはずだと思っていた。だから、帝王切開や子宮筋腫の手術の際、「これから先に虫垂炎が起きないように盲腸(虫垂)を取っておきましょうか」と好意で患者さんに話す先輩医師の言葉に違和感を持っていた。かつては虫垂切除は最もポピュラーな外科手術であり、多くの人が虫垂切除術を受けていたがこれからは慎重にならざるを得ないだろう。
生物が種として生き残る時、ムダなものをかかえられる余裕はないはずである。生存競争はそんなに甘くない。現在ある器官は、たとえそれがどんな役割を果たしているのかわかっていなくてもすべて必要なものであると考えられる。手術による器官の切除は慎重のうえにも慎重にするべきである。
久しぶりの京都
平成26年4月10日(木)
3月下旬のことであるが、京都博物館で印象派展(パリ・セーヌ・ノルマンディーの水辺をたどる旅)が開かれているので、久しぶりに行ってきた。京都では宿がとりにくいので大阪に泊まり翌日京都に行くという、いつものパターンである。ありがたいことに予約の取りにくい居酒屋「島之内一陽」がとれたのでうまい肴でゆっくり楽しめた。値段もリーズナブルで、これなら人気店になるだろうと納得。店主は可部出身とのこと、これだけの店を競争の激しい大阪の中心でやっているのは立派である。
翌日は東寺を訪れて国宝五重塔や春季特別公開の国宝・重文を鑑賞、桜の咲く前だったので人出もそれほどではなく、ゆっくり見ることができた。ところが京都博物館の印象派展は人を見に行ったようなもので、早々に退散した。昼は伊勢定が撤退した広島でうなぎに飢えていたのでミシュラン一つ星の「まえはら」へ行き、実においしいうなぎを食べることができた。寿命が延びたと思った。(年をとるといいことがあると「寿命が延びた」と言い、さらに高齢になると「冥途の土産」というらしい)
一瞬の桜吹雪
平成26年4月3日(木)
木曜日なので午後からは休診、暖かい花見日和に誘われて中央公園西の本川土手にみごとに咲いた桜の下でコンビニで仕入れた弁当とビール、対岸の桜もみごとで気持ちのいい時間を過ごすことができた。満開を過ぎた桜はもう散り始めており、春風が吹くと花びらが舞い下りてきて芝生に毛氈を敷いたようになってまことに風情がある。休日ではないので人も多くなく皆のんびりと最後の桜を楽しんでいた。ハトが寄ってきたのでつまみの枝豆を小さくくだいて撒いてやったら先を争ってついばむことしきり。そのうち豆がなくなったら一斉に飛び立ってどこかへ行ってしまった。
このようなおだやかな春の日をこれから何度も味わえるとは思えない。「今」を心から楽しむことができて良かったと引き上げて帰ったら夕方から雨になった。まさに一瞬の楽園であった。人生は常に「今」しかないのだと改めて思ったことである。
節酒のすすめ
平成26年3月28日(金)
元来、アルコールに弱いのに好きである。生来の食いしん坊なので、おいしく食べるためにアルコールをたしなむという面はあるが。1カ月前から下肢不快感があり、手術する前の静脈瘤の症状に似ていたので再発を疑った。アルコールを多めに飲んだ翌日に症状が起きるようなので、しばらくアルコールをひかえてみたが若干違和感があるようなので、4年前に下肢静脈瘤の手術をしていただいた逓信病院の杉山医師に診てもらうことにした。
最悪、深部静脈瘤→血栓症を覚悟していたが、下大静脈から両下肢の静脈までエコーで丁寧に調べても異常はないとのこと。とりあえず安堵したが完全に症状が消えているわけではない。やはりアルコールを控えるのがいいだろうと思う。歳と共にやめたり控えたりしなければならないことが増えてくるのは仕方がないことである。タバコは十数年まえに止めた。ゴルフは腰痛のためあきらめた。アルコールはこれから控えるつもりである。次はなんだろうか。
スプリンクラー設置の義務化
平成26年3月19日(水)
従来は一定の面積以上の病院に義務付けられていたスプリンクラーの設置が、すべての有床診療所に義務付けられる方向で検討されている。原因は福岡の医院の火災により死者が出たためだと思われる。スプリンクラーを設置するには、建物をそのように設計しなければならず、費用もかなりかかるうえに、もし誤作動でもすれば高価な医療機械が水浸しになってしまう。
今まで何十年も問題なくいっていたのに、わずか1件の防火扉の開閉さえ無視しているような未熟な施設の不始末のために、全国の有床診療施設に必要以上の義務を負わせるのは問題である。どれだけムダになっても自分たち(政府・役人)が非難されないようにとの、事なかれ主義の典型の義務付けである。
以前、麻酔薬のケタラールがたった1件の不良外人の不始末のために麻薬指定になり、全国の医師・獣医師が多大な迷惑を被っているのも同じ構造である。もっとも、なにかことが起こった時、すぐに責任を追及する一般人の姿勢にも問題があるので、公的機関が保証できるのはここまででそれ以上は「自己責任」だという線をはっきりさせればいいのである。
当院は無床診療所なのでスプリンクラー設置の義務はないが、すべての有床診療所への義務化はおかしいと思う。
「STAP細胞」はどうなるのか
平成26年3月13日(木)
生物学の常識をくつがえす発見「STAP細胞」の論文の真偽が問われ始めている。世界中の他の研究者たちが論文に基づいて再現しようとしてもうまくいかないらしい。論文の中の不適切な部分も指摘されて、共同研究者から論文の取り下げが提案されている。さらに著者の小保方氏の3年前の博士論文の一部が米国の雑誌からのパクリであることまでマスコミで話題になっている。小保方氏もきちんと説明すべきだろう。
科学の世界で再現性のない論文が認められないのは常識であるが、マスコミも記事にするのはその後にすべきであった。ネイチャーに掲載されただけなのにあれだけ持ち上げておいて、一転罪人のごとく追及する姿勢はいただけない。マスコミはこのような報道姿勢を反省してほしい。いずれにせよ残念というしかない。
免疫システムと妊娠
平成26年3月7日(金)
生物のしくみは実にうまくできているが、その中でも免疫システムの精密さは驚異的である。我々の体に異物(細菌、ウイルス等)が侵入したら、即座に「貪食細胞」や「NK細胞」が反応する。これらは前線部隊で、後に控えた「B細胞」「T細胞」が救援に向かう準備を始める。「B細胞」は抗体を作り異物を無力化し「T細胞」はウイルスや病原体が入り込んだ細胞を攻撃する。準備には数日かかるがほぼどんな異物にも対応できるようになっている。
問題はこのシステムが精密すぎると「自己」を攻撃するようになることである。成人の細胞は変異遺伝子が貯まってくるので「変異ペプチド」ができて、これらのシステムに攻撃される可能性が起きる。そうなれば自分で自分を滅ぼすことになるので、寛容さも必要である。その代表的なものとして「制御型T細胞」があり免疫反応を抑制する。これらの絶妙のバランスで免疫システムは成り立っているのである。
妊娠するためには、精子という異物が免疫システムに攻撃されず体内に入り、卵子と結合(受精)しなければならず、その後も半分の遺伝子は異物なのに子宮内で胎児として育たなければならない。胎児を攻撃しないようにするために「制御型T細胞」が大きな役割を果たしているらしいが実にうまくできている。生命のしくみはまことに興味深いものである。
最近の尺八事情
平成26年2月28日(金)
昨年アステールプラザで行われた演奏会での「夕顔」の演奏を最後に、所属していた「吹康会」が活動を休止しているので、このところ尺八は気ままに吹いている。吹いていていつも思うのは、古典の曲は味わい深いことである。さすがに時代を超えて残っているものはすばらしい。
琴尺八の音楽で日頃から耳にしていたのは「春の海」ぐらいで、地唄などはその存在すら知らなかった。実際に聴いても吹いてみても、初めはちっともいいと思わなかった。ところが、何度も何度も吹いているうちに味わいが感じられるようになってきた。ちょうどビールは最初は苦いだけでおいしくないし、タバコも煙いばかりなのだがこれがいつのまにかおいしくなるのと同様である。
そういうわけで今は古典から現代曲まで気にいった曲を吹いている。時々師匠に修正してもらいながら、楽しく吹いている。レベルを上げるための訓練はしんどいし、いくら頑張ってもうまくならないのがつらいけれど、ある日突然進歩の実感があることがあり素直にうれしい。もっと早くから始めていたらと思うが、その頃は全く興味がなかったのだから仕方ない。いっそう精進したいものである。
読書について
平成25年2月21日(金)
養老孟司氏によれば、氏にとって「読書」とは常に何かをしながらする行為で、「読書」自体が目的ですることはない。たとえば電車に乗って目的地に行くという行為がある時に、車内で読書するとか、教授会に出席しなければならないという目的があるときに、退屈しのぎに読書するとか、まさに「ながら族」だという。
これを読んだ時、自分の「読書」もまさにその通りだと思った。何か目的のある行為をしている時に読書できる状況なら、いつもなにか読んでいる。ついでに言えば、試験のために「本」の内容を覚えなければならないという、いわば「読書」自体が目的の時は全く読みたくなくなる。
クリニックでも自宅でも、いつの間にか山のように本が(マンガ・雑誌も含む)たまってしまうのでブックオフに持っていくが、残しておきたい本が少数ながらあるのでそれらの本が次第に増えていく。読書自体を目的としない「読書」は楽しいものである。