カテゴリー 本

「妻の肖像」

令和5年9月7日
表題はジャーナリストで作家の徳岡孝夫氏の作品である。愛妻家である氏の70歳で亡くなった妻・和子への思いが淡々と綴られていてしみじみとした感動を呼ぶ。大阪生まれの氏は京都大学を卒業後、毎日新聞社に入社するが卒業前から高松に配属され、木造二階建ての古ぼけた支局に赴く。そこで働いていた事務員が和子である。徳岡25歳、和子24歳で結婚し、以後45年間男の子2人を育て仲睦まじく暮らしてきたが、和子69歳のときに腎臓がんの骨転移が見つかり70歳で亡くなったのである。
徳岡氏は妻とのなれそめから結婚生活、子育て、やっと家を持てたことなど、たくさんのエピソードを交えて綴っているが、妻に対する深い愛情が大きな河のように底を流れていて暖かい気持ちになる。
臨終の和子夫人に徳岡氏は「和子、また会おう。近いうちに」と呼びかけているが心の底からの言葉であろう。氏は山代春日さんから贈られた油絵の板絵「徳岡和子像」を眺めるたびに「生きている」と感じて帰宅すると必ず「和子、ただいま」と声をかけている(石井英夫氏の解説)。愛しき人を持つすべての人に読んでもらいたい作品である。

「ザイム真理教」

令和5年8月3日
表題は経済アナリスト、獨協大学経済学部教授、テレビでも活躍する森永卓郎氏の近著である。発売18日で4刷だからよく売れているようで、週刊誌の書評欄で知って読んでみた。財務省が国民に40年間植え付けてきた「財政均等主義」がいかにこの国の経済を悪化させているかをわかりやすく解説し、どうすればよくなるかを簡潔に述べている。
このところ税金が高くなっていることを日々感じて、様々な名目で税金を払わされていることに違和感を持っていたが、氏の解説でその無茶ぶりがよく分かった。最大の間違いは消費税の導入だという。しかも3~5~8~10%と増やし続けている。このままだと20%にまで増やすかもしれない。そのうえ所得税も増やし、復興税も据え置き、健康保険料も増やしているので、かつての「五公五民」の重税になって来ている。江戸時代から「四公六民」が世が治まる税金の比率だったのが財務省の「財政均等主義」のために必要以上の重税になっている。消費税を5%に引き上げてからは実質賃金は下がり続けている。消費税を廃止することが経済を復活させる最良の手段だという氏の考えは納得できる。
久々に面白い本を読んで目から鱗が落ちたように思った。

「マッチング・アプリ症候群」

表題は大学卒業後、新聞記者を経てフリージャーナリストになった速水由紀子氏の近著である。最近、マッチングアプリを使って知り合って結婚したカップルが見られるようになった。私の知る限りではみんなうまくいっているようで、これからも新しい婚活手段として増えていくのではと思われる。
かつては結婚は家同士、仲人を立てて同等の格の家との間で行われていた。口を聞いてくれるお節介おばさんなどがいて、年頃になればなんとなく結婚できていたので、自分で見つけなくても婚姻率は高かった。今は「個」の結婚になっているので自分で相手を見つけなければならない。今の日本は男性の31%、女性の23%が未婚である。そこで登場したのがマッチング・アプリで、米国で1990年代から登場し日本では2012年から婚活アプリとしてのサービスが始まったという。
著者は実際に複数の婚活アプリに登録して出会いを経験し、訳を話して取材させてもらい、許可を得た人についての内容を記したわけである。早い時期に結婚が成立してハッピーなカップルもあるが、依存症になって抜け出せない人もいる。いずれにせよ実生活と同じで難しいことには違いがないけれど、出会いのチャンスが飛躍的に増えるのがマッチング・アプリである。これからも増えていくと思われる。

「達人、かく語りき」

令和5年6月29日
表題は沢木耕太郎セッションズ<訊いて、聴く>全4冊中の第1冊である。沢木氏のノンフィクション作品はその視点と綿密な調査、対象への共感が感じられて楽しく読ませてもらっていた。特に初期の作品の「人の砂漠」「テロルの決算」を見つけた時はすごい新人があらわれたものだと興奮したことを覚えている。その後「深夜特急」をはじめ意欲的な作品を次々に生み出し、旅に関するエッセイも多数あり、読むたびに氏の人間としての美学が感じられて居住まいを正して読まなければと思わせられる。
この作品では、吉本隆明、吉行淳之介、淀川長治、磯崎新、高峰秀子、西部邁、田邊聖子、瀬戸内寂聴、井上陽水、羽生善治の10人と対談をしている。もっとも現在も活躍している人は僅かで、ほとんどの人は鬼籍に入っている。
対談は互いの人間の力量が揃わないと難しいが、氏はすべての人と肉薄した会話をしながらある距離以上には踏み込まない、いわばジャズセッションのように対話している。そのやり取りが面白く、興味深い話も出て読みだしたら止められない。実は2年前に買っていたのを今読み始めてみて、やはり沢木耕太郎はすごいと改めて思った次第である。

「古地図と歩く広島」

令和5年6月15日
表題は「迷った時のかかりつけ医」シリーズなど出版している広島・南々社の最新刊で、著者は神学博士・中道豪一氏である。広島市の名所を19のエリアに分けて、江戸時代・戦前・現代の3つの地図を重ね合わせるようにして歴史を今に再現しているもので、じつに興味深く読ませてもらった。
冒頭は「中島町」現平和記念公園で、江戸時代には本安橋(現元安橋)と猫屋橋(現本川橋)が西国街道の交通を支えていて、本川と元安川に分流する三角州の中島町は水運の要所であり経済活動の盛んな地であった。広島城築城と共に発展してきたという。今でも残る旧跡を紹介してそれらをたどるコースとかかる時間を記しているので、散策するのにはもってこいである。19のエリアのコースはそれぞれ1~2時間くらいにまとめているので全コース制覇するのも面白いだろう。久々のヒット作品に出合った。

「なぜ私たちは存在するのか」

令和5年4月27日
表題は京都大学医微生物研究所の宮沢孝幸准教授の最新の著作である。「京大おどろきのウイルス学講義」「ウイルス学者の責任」に次ぐ第3冊目のPHP新書で、これまでの氏の学者として生きてきた軌跡をなぞりながらウイルスとはどういうものかを丁寧に述べている。難しい部分も多いが全体でみると「ウイルスと生物との関係」が少しずつ理解できて面白く読ませてもらった。本物の学者はすごいなと感心させられたのもうれしいことであった。ウイルスはなぜ存在するのか、生物はなぜ生まれたのかという根源的な疑問を考えさせられる。ウイルスを作ることはできるが排除することは難しいことが理解できる。
武漢ウイルスが広がり始めたころから、氏は「これを防ぐことはできないし日本人にとってはそんなに恐ろしいウイルスではない」と述べていた。また、「新型ワクチンは危険だから使うべきではない」とも述べていた。その言葉通りワクチンを打っていなかった2,020年は超過死亡がマイナスだったのに、ワクチンを打ち始めた2,021年から超過死亡が増えてきて2,022年には信じられない超過死亡になっている。そのことについては厚労省は知らんふりをしているし、マスコミも何も言わない。あれだけコロナが怖いと煽りまくり、ワクチンを打たないのは罪だと言わんばかりに打たせまくり、人々の行動制限や無駄なマスクをさせまくった責任をだれも取ろうとしない。氏の著書ではそのことに一切触れていないが、行間から強い怒りが読み取れる。氏はウイルス学者として人々のために適切なことを言ってきたけれど、声の大きい人たちやマスコミ、委員会などの前では正しいことが通らず結果的に多くの人が犠牲になったことに対する深い悔しさが感じられる。
太平洋戦争に突入した時も、一部の知識人や一部の軍人は「戦争はすべきでない」と訴えていたけれどマスコミをはじめ声の大きい多くの人に押し切られて多大な犠牲を払った。同じ図式である。この国は変わらない。

「ウイルス学者の絶望」

令和5年2月24日
表題は京都大学の准教授でウイルスの専門家、宮沢孝幸氏の著書である。ジャーナリスト鳥集徹氏との共著「コロナワクチン失敗の本質」に次ぐ宮沢氏渾身の作品である。帯には「私の35年にわたるウイルス学、免疫学、分子生物学、ウイルス共進化学を研究してきた経験に基づいて、学者として信念をもって執筆しました」とあり、本当に日本のことを考えて、「今までの新型コロナ対策は間違っていますよ、負のスパイラルに落ちてしまっていますよ」とわかりやすく一般人向けに講義している。氏は正しい知識をマスコミにも政治家にも発信を続けてきたが、声の大きい御用学者や不安をあおるマスコミには歯が立たず、表題の「ウイルス学者の絶望」になったわけである。
新型コロナが日本で発生した時も、すぐに収まるだろうと考えていたが、海外の状態に煽られて正しく対処してこなかったことを歯がゆく思っている。まともなウイルス学者なら新型コロナに対しては氏のように考えるのだろうが、誰も発信せずあっという間に間違った方向へと行ってしまった。この3年間の損失は甚大である。どうしてこうなってしまうのだろうか。

「京味物語」

令和5年2月10日
表題はノンフィクション作家、野地秩嘉(のじ・つねよし)氏の著作で東京、新橋にあった名店「京味」の一生を綴った作品である。「京味」は漫画「美味しんぼ」で知って一度は行ってみたいと思っていたが、残念ながら機会がなかったけれど、この作品で店を身近に感じることができた。
店主の西健一郎は京都・木屋町で割烹をやっていた西音松の四男に生まれた。音松は西園寺公望のお抱え料理人で、当時の調理師番付で西の横綱になるほどの腕をもっていた。健一郎は高校一年生の正月明けに父親の音松から京都の料理屋に修業に行くように命じられる。1,954年、17歳、厳しい修業が始まった。先輩からのいじめも激しかったがじっと耐えて頑張った。10年以上続いた料理人はいないほど厳しい店だったが、健一郎はそれに耐え「真」といわれる板前になった。自分の店を持ちたいと考えて準備したが、親方から妨害され東京で独立することにした。30歳の時であった。それからはその腕と家族全員でサービスする姿勢、客が客を呼び東京の名店になったのである。
2,019年の5月にも著者は京味で食事している。その際、西は「90まで頑張って料理を作る」といっていたのに8月に訃報を知って驚いている。著者をして「日本料理の最高峰」と言わしめた「京味」は2,020年店を閉めた。
阿川佐和子氏の「過ぎてようやく気づく。京味は、味だけでなく、店の佇まい、気遣い、動き、会話、香り、リズム、気配…、すべてが日本の文化そのものだった。」との帯の言葉がある。

梶山季之氏再び

令和5年1月27日
大下英治著「最後の無頼派作家 梶山季之」を偶然本屋で見つけ、かつて梶山氏の著作は結構読んでいたので懐かしくなり購入した。
梶山季之氏は1,930年に日本統治下の朝鮮・京城で生まれ敗戦後父親の故郷、広島地御前で育つ。広島高等師範学校時代に同人誌「天邪鬼」を発刊、後の美那江夫人と知り合う。肺に空洞があり(結核)上京しても定職につけなかったが、後を追って上京した美那江と結婚、喫茶店を経営しながら同人誌「新思潮」に参加して小説を書くようになる。
1,958年にフリーライターになり世紀の大スクープと呼ばれた「皇太子妃に正田美智子」をスクープしてトップ屋と呼ばれた。その後小説に専念して「黒の試走車」「赤いダイヤ」「李朝残影」など膨大な作品を書いたが激務とアルコールのために1,975年取材先の香港で客死した。肝硬変による食道静脈瘤破裂だった。
綿密な取材と体験をもとに小説の形で告発した作品も多く、「事実は小説よりも奇なり」のことわざを納得させられた。全著作は326冊、死後59点の文庫本が出版され1000万部以上売れたという。
美那江夫人は2,016年86歳で死去、世話していたクラブ「魔里」の大久保まり子は2012年「魔里」50周年を祝う会を盛大に行い、2020年12月まで店を開いていたが2021年1月死去した。梶山季之氏は風雲児のような人だったと思う。

「そばの旅」

令和4年8月26日
表題はそば職人の高橋邦弘氏の著書で、氏のそばを広めてきた軌跡が描かれている。サラリーマンだった氏がそばの魅力に取りつかれ、そば職人・片倉氏のもとで修業して自分の店「翁」を東京・目白に開いて繁盛していたが、自家栽培・製粉にこだわって山梨県に店を移し人気を博し、「そば会」も頼まれればどこにでも行ってそばを打った。
広島・豊平の町長に請われて山梨の店を弟子に譲って豊平に「雪花山房」を作り土日のみ開店、他県からも多くの人が来店した。実はこのときに私も行くようになってそのおいしさにとりつかれ何回いったことだろうか、いつもメニューは「ざるそば」しかなかったが背筋が伸びるような絶妙のそばとそばつゆだった。平日は全国各地にそばの普及、「そば会」の開催、クルーズ船飛鳥でのそば打ち、洞爺湖サミットでのそば打ち、スペイン・イギリスでのそば打ちなど世界規模の活躍をしている。たくさんの弟子を育てていて、そのおかげで広島のそばのレベルが向上したし、豊平のそばも有名になった。
その後大分の豊後高田市長に請われて移住し、杵築「達磨」を開店しているがここは会員制・予約制で週末と祝日、連休のみ開いている。会員でなくてもそばがあれば出して、気に入ってもらえれば会員になってもらうという。それにしても「そば」でこれだけのことを成し遂げたのは素晴らしいことで、まさに現代の名工・国民栄誉賞にふさわしい人ではないだろうか。