令和7年8月28日
表題は昭和20年の終戦を知らず、フィリピンのルバング島で諜報活動と遊撃戦を続け、昭和49年に元上官の命令により武装解除し、フィリピン軍に投降しマルコス大統領を表敬した後帰国することになった陸軍少尉・小野田寛朗氏(平成26年死去)の著書である。文庫本化されたので読んでみたが非常に面白く、戦前までは軍人は文字通り命がけで戦っていたんだと思った。戦況が悪くなっても「特攻隊」など日本を守るために爆弾を抱えて敵の戦艦に突っ込んでいったのは、我々の親世代のことである。わずか80年前のことで今となっては遠い昔の話になっているが、この本を読むと小野田さんは軍の命令を受け、命令を忠実に守り、たった一人になっても最後まで戦うつもりでいたことがうかがえる。
小野田さんは51歳でジャングルを出て投降し帰国したが、上官の命令がなければ60歳までは戦いを続け、60歳を機に現地のレーダー基地に突入して最後の弾まで打ち尽くして果てるつもりでいた。それが日本から24歳の鈴木紀夫さんが小野田さんを探しに行き、単独で島の中にテントを張って何日も過ごして小野田さんに会え、その後上官であった谷口さんが命令書を伝え武装解除したのである。
小野田さんの著書を読むと文章の底に流れているのは「覚悟」である。命令を遂行するために常に命がけである。戦後の我々に最も欠けているのは「覚悟」ではないだろうか。今、我が国が衰えていくのはそれが原因ではないだろうか。心に響く著書であった。
カテゴリー 本
「たった一人の30年戦争」
「頼る力」
令和7年8月13日
表題はダチョウ倶楽部のリーダー肥後克広氏の新刊である。ダチョウ倶楽部といえば上島竜兵の「クルリンパッ」とか「熱湯風呂」「聞いてねーよ」とかのギャグを思い出すが、残念ながら上島氏が亡くなってしまったのでどうしているのかと思っていたが、しっかりと活動していることがわかった。
芸能界で40年生き続けることがどんなに難しいことかを想像すると、たいしたものだと思わざるを得ない。肥後氏の母親は奄美大島生まれで「キマい」人だったそうだ。「キマい」とは方言で「お転婆」のことで、口より早く手が出る、負けず嫌いでケンカっ早く、何でも1番にならなければ気が済まないひとだったそうだ。沖縄に渡って食堂をしながら子供たち3人を育てた母の影響が大きいことがわかる。
肥後氏の森本レオ氏の物まねは絶品で、本人が満点をつけて以来の親交があるそうだが、雰囲気もしゃべり方もそっくりだった。ともあれ、人生の総括ともいうべき著作は面白かったし、飾らない語り口は快く感じた。
「作家の酒」
令和7年8月8日
表題は2009年11月発刊の作家と酒を扱った写真集で、エピソードを含めそれぞれの作家の人となりが偲ばれる作りになっている。書庫を整理していたらたまたま見つけたので久しぶりに見たが、面白かったので一気に読んで(見て)しまった。
昭和の時代、作家は尊敬もされていたし、人目を引く魅力があり、オピニオンリーダーの一面もあった。本書に登場する作家は、井伏鱒二、山口瞳から始まり当時のそうそうたるメンバーが26人、それぞれの行きつけだっや店や仲間、好んだ料理などを紹介している。いずれもアルコールを多飲していて、様々なエピソードがあって面白い。やはり人類とアルコールは切っても切れない関係だと納得する。
流川周辺でも裏袋あたりでも、夕方になると居酒屋や料理屋が繁盛していて、若者から老人まで酒と料理を求めての人だらけである。アルコールが飲めるのは元気な証拠である。いつも飲みすぎないようにしているつもりだが、知らぬ間に飲んでしまっている。反省しながら「作家の酒」を読んだわけである。
「四十年の真実ー日航123便墜落事件」
令和7年7月17日
表題は以前にも紹介したノンフィクション作家・青山透子氏の集大成ともいうべき最新作である。氏の記述は証明できるものと事実のみを調べ、時系列に沿って記述し、その中で矛盾することがあれば徹底的に調べ、膨大な時間を使って真実を追求しようとしていることがわかる。この姿勢は故森永卓郎氏も絶賛していたが、これらはすべて日航123便に乗っていた客室乗務員時代の同僚と何の罪もない乗客合わせて520人の死への弔いのために青山氏が40年に渡って声を上げ続けている魂の書ともいうべき作品である。
日本航空は墜落した123便の生のヴォイスレコーダーを絶対に公表せず、事故調査委員会も相模湾に落ちた尾翼を探すこともしない。それらを調べれば真実はわかると思われるが決してせずうやむやにしているだけである。遺族は真実が知りたいのである。たとえどんなに理不尽なことが行われていても、真実を公表して謝るべきところは謝り、責任を取るべきところは責任をとることが人間として必須のことだろう。遺族の中にも納得できなくて最高裁まで追求した人もいたが、突然裁判官が変わり差し戻しになったこともあった。
この重大事故を明らかにしないままでは、信義を大切にしてきた日本は終わってしまうのではないだろうか。
「天路の旅人」
令和7年7月10日
表題は沢木耕太郎氏の作品で、第二次世界大戦の末期に中国大陸奥地まで密偵として潜入した西川一三氏の8年に渡る旅を克明に描いた力作である。
25年前に沢木氏は「秘境西域八年の潜行」を書いた西川氏に興味を持って、当時盛岡市で化粧店主として人生を全うしていた西川氏に会いに出かけた。そして淡々として生きている西川氏の人柄に惹かれ、毎月盛岡に行き夕方から3時間くらい酒を飲みながら語り合ったのである。それは1年以上続いてほぼ全行程を聞き終えたけれど、文章にするには何か踏ん切りがつかずそのままになっていた。ある日、週刊誌の「墓碑銘」の欄に「中国西域に特命潜行 西川一三さんの不撓不屈」という記事を見つけ、家族に連絡して線香ををあげに行くことにしていたが、いくつかの偶然が重なって会うことができなかった。それから数年後に家族に会うことができ、話を聞くことができた。西川氏の書いた生原稿も見つけることができたので、氏の話と照らし合わせながらその旅を克明に再現したのが「天路の旅人」である。
沢木氏の綿密な調べとわかりやすく魅力的な文章で一気に読ませてもらった。次はどうなるのだろうという、自分も旅をしているような気持にさせられる素晴らしい作品である。釜山から奉天、内蒙古から中国の西域、チベット、ネパール、インドまでヒマラヤ越えを何度も行い、ラマ僧に扮して旅を続けた。最後は同じように特命潜行していた人の密告(?)により日本へ強制送還されることになったが、氏はまだまだ旅を続けたかったと話していた。
沢木氏の作品はどれも素晴らしいが、特にこの作品は面白かった。
「私はがんで死にたい」
令和7年6月13日
表題は外科医からホスピス医になり、89歳でがんで亡くなった小野寺時夫氏が2012年にメディカルトリビューンより刊行した著書の復刻版である。序文は医師で作家の久坂部羊氏が書き、あとがきは最後までそばにいて小野寺氏を看取った娘さんの美奈子氏が書いている。
小野寺氏は消化器外科医で50歳台までは第一線でバリバリ働いていたが、57歳の時に咽頭がんになり幸い治癒したが、それを契機に生き方を変えた。管理職になり患者さんを直接見なくなったのも変えられた原因だろうが、山歩きが好きだったのでハイク・サークル「かたくり」をつくり、3~40人のメンバーで毎年2~3回国内や国外で山登りやトレッキングを行うようになった。家庭菜園も始めて勤め先の病院内で配ったり、バイオリンも習い始めた。その後、頼まれてホスピスに携わるようになって、進行がんに対する日本の医療がどんなに過酷なものか思い知り、この本を書いたのである。がんはある時期を超えると治療しても治らない。抗がん剤も効かない。治療は患者を苦しめるだけである。治らないものを無理に治そうとするから苦しめるのである。痛みを緩和し、おだやかに最後を迎えられるようにするのがホスピスであり、在宅療養支援クリニックである。氏は様々な実例を示しながら、日本の医療は治療には熱心だが緩和ケアは遅れているというか、ほとんどちゃんと行われていないという。緩和ケアが充実しているなら、氏はがんで死にたいと書いていて実際にがんで亡くなった。その経緯は美奈子氏が書いているが、見事な一生だったと周囲は羨ましがっている。確かにその通りだと思う。
佐藤隆介氏の著作
令和7年5月29日
池波正太郎関連の著作で知られた雑文製造処「鉢山亭」主人、佐藤隆介氏が亡くなって4年になる。池波正太郎氏の食べ物についてのエッセイは愛読していて、「食べることは生きること、今日が最後だと思って食べろ、飲め」がいたく気に入っていた。その池波氏の生き方にほれ込んで、10年間書生を務めたのが佐藤隆介氏である。氏は東大のフランス文学科を卒業した後、広告代理店のコピーライターを経て作家になった。日本中旅して各地の特産品や食べ物、人との出会いなどを文章にしていた。池波氏の書生になって深く付き合ううちに氏の神髄を感じられるようになった頃、一旦たもとを分かったが、池波氏が亡くなって十余年、池波氏の夫人から「池波のこと書けるのはあなただけだから、遠慮せずしっかり書いて」と言われ「池波正太郎の食まんだら」「食道楽の作法」「池波正太郎の愛した味」「鬼平先生流 旅の拘り、男の心得」「池波正太郎への手紙」「池波正太郎の食卓」など多数の作品を著した。
佐藤氏は日本中にいろんな知り合い、友人を持ち、各地からの到来ものをありがたく味わい、料理・酒を大いに楽しんだ。最愛の妻を亡くした時のことは新潮45に「うっちゃられ亭主の独言」という文章を記して妻を偲んでいる。7年間の闘病生活の後に逝った夫人に対する思い出とつらい気持ちを綴っていて心打たれる。
佐藤氏の著書はいつでもそばに置いていて、ことあるごとに読んでいるが一向に飽きない。こんな風に生きてみたいと思わせる素晴らしい作家だった。
「脳は耳で感動する」
令和7年4月4日
表題は養老孟司氏と久石譲氏の対談集である。ヒトは音楽をどのようにとらえ、認識しているかを解剖学者の立場から、音楽家の立場から伝えあっての対談は実に面白い。脳内の言葉を認識する部位と音を認識する部位の違いなどを養老氏が説明し久石氏が納得する。久石氏から見れば養老氏は頭に大きな図書館をつけていて、その魅力的なバリトンヴォイスで氏の知りたかったことを的確な言葉で教えてくれることを喜び、養老氏は筋の通った久石氏の言葉を聞いているとよい音楽を聴いているような気持になり、音楽と言葉が深いところで連結しているということを話しながら実感したという。
久石氏は映画音楽を手掛けていて、映像は1秒で24コマまわるが音楽を映像にぴったり合わせて作ると音の方が早く聞こえるそうである。だから音の方を映像より3コマか4コマ遅らせるという。それで映像と音楽がしっくり合うのだ。
それについて養老氏は視覚と聴覚は処理時間がズレるからだと解説する。それは脳のシナプスの数の問題で、神経細胞の伝達が視覚系と聴覚系で違うからだという。生き物になぜ耳と目があるかというと、それぞれ違うものを捕まえるためで、それを頭の中で一緒にしようとするのが人間だという。
そうだったのかと思わせてくれる面白い対談集だった。
「コロナワクチン後の世界を生きる」
令和7年3月6日
表題は新潟大学医学部名誉教授で、循環器専門医、数々の重要な仕事を歴任してきた岡田正彦氏の新刊である。新型コロナが日本で流行するようになったころ、氏の勤務する介護施設にいた認知症の高齢女性がコロナによる肺炎で死亡した。施設での感染者は18名に及んだが、厚労省は以後亡くなった患者さんがPCR陽性なら死因はすべてコロナが原因だとするように通達した。このことに疑問を持ち、氏のホームページを「新型コロナのエビデンス」と改名し、最新情報を毎日更新した。2,021年初頭、新型コロナワクチンが登場してからはワクチンに絡む疑惑を中心に更新した。
世界中の論文を読み込み、信頼できるものをわかりやすく説明し、疑問点も提示し、多くの人が目に止めるようになった。コロナが2類感染症でなくなってからも更新していて世界中の研究成果を提示している。日本でのコロナ対策が正しかったのか、間違えていたのならどこに問題があったのかなど、新型コロナ感染の総括をすべきなのにだれもしない。特に厚労省が先頭に立って行うべきなのに。マスコミも毎日怖いぞと煽りまくった反省もない。厚労省の委員会も当たらず触らず、何の意味もない予防・治療を薦め、飲食店をはじめ社会が大きく傷を負った。欧米のメガファーマはワクチンを売りまくり巨額の利益を上げた。
岡田氏の今までの新型コロナの経緯を冷静に分析してまとめたこの著書は、まじめで能力の高い学者が信頼できる論文や各国の発表などを冷静に真摯に分析し、わかりやすく教示してくれている貴重な著作である。
氏のような人がいると思うと、まだまだ日本は大丈夫だと思える。ありがたいことだ。
「ガッキイファイター」は今何処に
令和7年2月27日
「そして殺人者は野に放たれる」「買ってはいけないは嘘である」「脳梗塞日誌」などの著者でギャンブラー、日垣隆氏のメルマガ「ガッキイファイター」を購読していた。氏の本質を見抜く鋭い発言や文章が面白く、何年にもわたって愛読していた。
氏の主催する英語講座にも参加して2カ月間毎日何時間も費やしていた。さらに3か月の追加講座も行ったが、残念ながら毎日使わないとできないことが分かった。いい経験になったが、メルマガはずっと愛読していた。氏は2,015年、グアム島でのゴルフ合宿中に脳梗塞を発症し、再起不能かと思われたが、信じられないくらいのリハビリに励み、不自由ながらメルマガを続け、世界中を単独で回りカジノで大金を稼ぎ、再婚していた妻と子供を大切にして日々を送っていた。2,019年にメルマガの日本版は止めると宣言し、今から1年間は無料で会員に届けるが、それを過ぎれば海外版だけにすると言った。最後のメルマガは2,020年7月21日号で、以来日本での配信は終わった。世界では50ヵ国に配信しているというが、以後どうなっているのか全く分からない。
先日、当時のメルマガを読み返してみたがやはり面白く、コロナ騒動の始まった2,020年の初めから、「マスクは意味ないし、インフルの方がより怖い、三密を避ける意味がない、関係者の事なかれ主義が騒ぎを大きくしているだけだ」と言っていたが4年経った今では氏の言ったとおりになっている。世界中を回り貴重な知見や意見を教えてくれた氏は、今どうしているのか知りたいと思う。