医師は神になれるのか?

平成18年3月28日(火)
すっかり暖かくなり今週末は桜が咲く。私にとって桜と春は同義語である。桜が咲いたら春が来たと実感できる。ちなみに桜の語源は「咲く」という動詞に名詞化する接尾語「ら」がつけられて「さくら」となったそうである。
このところ末期のがん患者の呼吸器をはずした医師のことが話題になっている。考えさせられることの多い事件である。回復する見込みがなく呼吸器をはずせば確実に死んでしまう状態の患者さんに対して家族から何とかして欲しいと要求があったらどうするかということである。
この命題は今回のケースとはやや異なっているかもしれないが、このように単純化して考えた場合「医師は神になれるか」ということである。第一に呼吸器その他により本来は亡くなっている人を生かすことは正しいのか?第二に生かしている状態が不合理だからといって止めさせられることができるのか?命を永らえさせたいと思うのは医師にとって最も必要なことであるが同時に癒そうとすることも同じく大切なことである。たとえ命が短くなったとしても癒しの方が大切なこともあるのではないか。さらに癒しは本人だけでなく周りの人にも必要なことが多い。
今回のケースは、命を永らえさせるよりも癒しの方が大切だと判断したのだと思う。問われるべきはこの判断が正しいのか、そもそも医師がこの判断をしていいのかということである。医師が神になれるかというのはこのことで、この判断ができるのは神だけだろう。実際は「神」は概念であり現実に目の前に二者択一を迫られている状況があった場合、まじめであればそれだけ今回のような選択をすることは十分考えられる。いちばん安易なのはなにもせず様子をみていくことで、家族から要求されようが意味のない延命だと思おうが、呼吸器をはずさず延命処置を続ければいいのだ。
今回の問題は非常に大切なことなので簡単に結論はでないだろうが、じっくり考えて皆が納得できるような指針ができればと思うし作らなければならないだろう。