運命についての考察

平成17年5月13日(金)
固体発生は系統発生をくり返すというが、個人はどんなに高名な人物でも自分の育った環境から逃れることはできないようだ。この場合の環境とは、生まれた時代、場所、親子関係、周囲の状況、本人の資質などである。これらは自分ではどうすることもできない。それゆえ、運命なのである。
はじめにそう思ったのは「次郎物語」を読んだ時だった。作者の下村湖人は教育者として、思想家としてすばらしい仕事を積み重ねて来ており、さまざまな困難を乗り越えてきた「巨人」というのにふさわしい人物で、次郎物語を書き始めた時はもう六十を過ぎていたが、自分の生い立ちを通しての人間形成の過程を克明に物語の形で語ったのがこの物語である。その中で本人の性格を含め、生い立ちに必然的にまつわる処々の状況にどう対処し成長していったかを、小説の形で詳 しく記している。自分の分身である次郎が運命である環境をどう考え対処し、どのように苦闘しつつ幼年期、少年期、青年期を過ごしていったかを真摯な文章で記しているのである。
最近南木佳士の作品を読み、改めて人は生まれた環境、運命を死ぬまで引きずって生きていくのだと思ったことである。一人の人間の物語はその人にしかなく、 一人ひとりが物語を一つ描けるだけなのだ。これを神のような視点から見れば、一人ひとりが同じようなところで悩み、同じように成長して、同じように死んでいくと思えるのかもしれない。人間からアリの群れを見るとどのアリも同じようにしか見えない。一人の人間の成長も神の視点からは、系統発生のようなものでわずかな違いがあるだけではないだろうか。たとえそうであったとしても、人間の喜怒哀楽はそのわずかの違いの中にあると思うし、日々のささいなことから幸せを感じたりすることも事実で、人間はいとおしい存在だと思うのである。