月別記事一覧 2019年5月

「健康生活委員会」

令和元年5月24日
表題は我が国の知恵の象徴ともいえる元東大医学部教授の養老孟司氏と医学界の嫌われ者、でも医師の中にも隠れファンの多い元慶応大学講師の近藤誠氏の対談本である。この二人の著書はいずれも本質をついていることばかりで、読んでいて目から鱗が落ちることが多い。
養老氏は今年で82歳、近藤氏が71歳であるが、お互いに認め合っていて気が合うようで、数年前にはそれぞれのペット(養老氏のネコ「まる」と近藤氏の愛犬「ボビー」)について対談本を出している。今回の対談はお二人の「健康」についての考え方から医療全般、「生きること」まで思いつくまま、気楽に語り合っていて楽しく読ませてもらった。
お二人の著書はほとんど読んでいるので、会話の背後にある考え方やどうしてそのように考えるようになったかなど、腑に落ちることばかりであった。かつて山本夏彦氏は「わかる人には電光石火伝わる」と言ったが、逆に言えば「わからない人には絶対に伝わらない」ということで、近藤氏の言説も医学界では無視されるのだろう。養老氏は近藤氏に対して「医学界からのストレスによく耐えましたね」といたわりを込めた感想を述べているが、そのとおりだと思う。それでも懸命に頑張っている近藤氏を優しく見守っている兄のような養老氏をこの対談から感じた次第である。

子宮筋腫の薬物療法の新展開

令和元年5月17日
表題は東京大学医学部産婦人科・平池修准教授の講演である。子宮筋腫は最もポピュラーな子宮の疾患であり、昔から様々な治療が行われてきた。過多月経と月経痛は最も多い症状で、以前は手術しかないため開腹・子宮摘出術が一般的だった。その後ホルモンレベルを下げることで症状を軽減する方法が開発され、手術法も腹腔鏡を使った低侵襲手術が広がり、患者さんにとって昔と比べるとはるかに良くなった。それでも治療に難渋することもあり、この病気を克服したとまでは言えないのが現状である。
今回は、ホルモンレベルを下げる新しい形態の薬についての講演が行われたが、出席数が多く椅子が足りないくらいだった。やはり皆さんもこの治療について関心があるのだろう、熱心に聴講していた。新しい知見を得ることは興味のあるところであり、患者さんのためになることなのでこの講演会の盛況は心強いことであった。

令和元年

令和元年5月10日
連休が終わり「令和」の元号になっての診療が始まったが、つい「平成31年」と書いてしまいそうになる。訂正印をハンコ屋さんに注文しているが、「平成」と印刷してある書類もまだたくさんあるので当分の間は一々訂正しなければならない。
一番長く続いた元号は「昭和」、二番が「明治」だそうであるが、「平成」は四番目とのことで、こんなに長く元号を使った歴史のある国は世界中でもまれなことだという。学生の頃は西暦の方が各国との比較で使いやすいと思っていたが、歳をとるにつれて元号を使う方がしっくりすると感じられるようになった。ただ年齢を計算するには元号は難しく、一度元号を西暦に直して計算しなければならないので少々面倒である。今年は昭和94年、平成31年と記憶しておき、昭和40年生まれの人であれば誕生日に94-40で50歳、平成5年生まれの人なら誕生日で31-5で26歳ということになる。令和2年になれば、昭和95年、平成32年ということになる。当院ではさすがに「大正」生まれの人は来られないので「昭和」「平成」だけ覚えて置けばいいけれど。

「尿管結石」体験記

令和元年5月3日
大型連休の4月28日から、次女が住むことになった松本へ出発、家に2泊して長野に1泊、金沢に1拍することにしていた。家に着いて軽食直後から胃部不快感あり徐々に増悪、背部痛も起き耐え切れず当番医を受診、原因がはっきりせず夜間救急病院を確かめて帰宅した。横になったが痛みに耐えきれず、聞いていた「あいざわ病院」を受診した。ここはスピードスケートの小平奈緒選手をバックアップしている病院で、松本市内で3次救急を受けている地元で頼りになる病院だそうである。医師・スタッフ共に丁寧な対応で、CT,血液検査等スムーズに行い、結果待ちの間も次々に患者さんが来てまさにERの様相を呈していた。院内トリアージも行われているので、重症患者が待たされることもないようだ。
待つ間も痛みは一向に治まらず、「なんでもいいから痛みを取ってくれ」と叫びたくなっていた。待つこと暫しようやく呼ばれ「尿管結石」の診断を聞く。CTには5㎜ぐらいの石がはっきりと写っており尿管下部まで下りていた。あと少しで自然に膀胱まで下りるだろうからそれまで痛み止めで様子を見ることに。帰りの途中、突然背部痛が薄らいできた。まさにこの病気の経過通りで、なぜ初めからこれを疑わなかったのか恥ずかしい限りである。尤も当番医の内科のDr.も疑わなかったので典型例ではないのだろう。
翌日からは完全回復、スケジュール通りに旅ができたのは幸運だった。