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責任

令和2年9月25日
医療機関は患者さんに対してどこまで責任を持てばいいのだろうか。たとえば妊婦健診は妊娠中の様々な異常に対して対応する義務があるが、時間外に異常が発生することが多く、24時間対応できる体制でなければ難しい。お産をする病院は24時間受け入れているので、いつお産が始まっても大丈夫である。だから生まれるまでの期間も含めいつでも対応してもらえる。ただし、この体制を作るために医師はもちろんスタッフの確保、施設の整備など目に見えない多くの努力がある。個人で行うには限界があるので当院では妊婦健診を行わず、妊娠8週で予定日が確定した段階で分娩施設に紹介するようにしている。
時々、患者さんから「妊婦健診を受けている病院に予定外の受診を申し込んだら、予約が一杯だと断られた」といって当院を受診されることがあるが、症状を聞いたうえで急ぐ必要がないと判断してならいいが、そうでなければ?である。さらに「お産の後、乳腺炎のような症状で発熱して痛いのでお産した病院に問い合わせても対応してもらえなかった」という話を聞くと、これまた?を感じる。常識的にはそこまでは対応すべきではないだろうかと。普通はあり得ないことなので、たまたまそうなったのだろうが色々難しい問題をはらんでいる。当院もどこまで責任を持つべきなのか、常識で納得できるところまではと思うが、その常識にも幅があるだろうし。

「漱石先生」

令和2年9月18日
表題は寺田寅彦の夏目漱石にまつわるエッセイを編集し、小宮豊隆・松根東洋城との対談も加えた作品である。明治11年に生まれ、物理学者・随筆家として知られた寺田寅彦は、昭和10年に亡くなるまで東大物理学系の教授、地震研究所、航空研究所、理化学研究所などにも籍をおいて科学者の視点から独自の日常身辺のエッセイを著した。熊本の旧制第五高等学校時代に、英語の教師として赴任していた夏目漱石の知遇を得る。それ以来漱石を実の父親以上の師として慕い、漱石もまた弟子としてかわいがり強い師弟関係が結ばれていたようである。漱石との出会いもエッセイに詳しく書いてあるが、俳句を教わることから始まって正岡子規を紹介されたり、漱石のサロンに出入りして文士達と交流したりの日常風景が緻密かつ簡潔に書かれている。
漱石の「吾輩は猫である」に物理学者「水島寒月」として登場するのが寺田寅彦である。寺田寅彦は初めの結婚相手が男児を産んだ後早い時期に結核で亡くなるが、その頃のことも「猫」には直接ではないが描かれている。両者の著作を重ねると当時の情景が目に浮かぶように想像できるのは、描写が的確で文章が優れているからだろう。100年以上経って興味を持って文章を読む人間がいるのも、著書が現在まで残っているからである。文章の力は誠に強いものである。

開院23周年

令和2年9月11日
昨日の朝、クリニックに着いて日付のゴム印を変えた時に気付いた「そういえば23年前のこの日に開院したんだ」と。早速診療日誌を見たら、5年前に「開院18周年」の文章があった。つい最近「開院〇〇年」の文章を書いたように思っていたが、あれからもう5年経っていた。まことに月日の経つのは早いものだ。「仰げば尊し」の歌詞に「思えばいと疾(と)し この年月」というところがあるがまさにその通りである。5年どころか23年も一炊の夢で、月日が矢のように過ぎて行く。同時に記憶力が落ちてくるので余計にそう感じるのだろう。
尺八を置いて替わりに始めたフルートでは、高音部の音出しがなかなかスムーズにいかない。これも呼吸による代謝亢進を図りながら同時に行う指と頭の訓練だと思ってやっているが、始めてみると面白く時が経つのを忘れるくらいである。「アルルの女第2組曲」のメヌエットが吹けるようになりたいと思っているのだが。診療はもちろん、いろんなことをこれからもマイペースでやって行きたいものである。

「日本人よ強かになれ」

令和2年9月4日
表題はジャーナリストで週刊新潮にコラム「変見自在」を連載している高山正之氏の著書である。週刊新潮のコラムを読む度にそうだったのかと納得することが多く、新刊が発売されたのですぐに読んでみた。氏は産経新聞社の社会部デスクを経てテヘラン、ロサンゼルスの支局長、イラン革命やイラン・イラク戦争など現地取材し産経新聞の時事コラムも担当していた。世界情勢を見る目は確かで、親米でもなければ親中国でもなく、事実に基づいた日本のためになることを書いている。
日本は戦後アメリカに支配されて以来大きな変化がおきてきたが、それらの本当の意味を各国パワーゲームとリンクさせながら述べている。国内でのマスコミについても歯に衣を着せない言葉で断罪していて、逆にすがすがしく感じる。現在の中国・朝鮮半島の状態、ロシアの問題など隣国は油断も隙もないことを指摘している。国内の親中国の政治家やマスコミがどれほどいるのかも。敷島の大和の国はどこへ行ってしまったのか。

夏の終わりに

令和2年8月28日
日中はまだまだ暑いが、朝夕はしのぎやすくなってきた。律儀なもので四季は毎年、きちんと巡ってくる。それに合わせて服装を始め生活様式を変えて凌いできたわけだが、昔の生活と比べると格段に良くなっているのは間違いない。明治、大正、昭和初期の頃の文学や随筆などを読んでみると、その頃の日常生活がおぼろげながら浮かんでくる。自分が農家出身で田舎の生活が身についていたので想像できるわけである。洗濯機・冷蔵庫・テレビはいずれも小学校時代以降に買って、それまではごはんはカマドで焚き、洗濯はたらいで行い、風呂は五右衛門風呂、トイレはぽっとん便所、これが村では当たり前の状態だった。水は井戸から汲み夏は戸をあけ放ち蚊帳をつり、冬は風呂を沸かした後の炭を使ったこたつで暖を取った。現代はその頃の生活からは考えられないくらい快適な時代になった。今から昔の生活に戻れと言われても無理である。ほぼ全員が高性能パソコン(スマホ)を持つようになるなど想像もつかなかった。こんな時代がいつまでも続くとは思えないとふと考えてしまう季節の変わり目である。

仁淀ブル―

令和2年8月21日
Go to travelを利用して四国に行った。高知県の山岳観光のメッカ、工石山を背景にした高知市から車で30分の「オーベルジュ土佐山」が予約できたからである。車で出発、瀬戸大橋を渡り香川県の道の駅で讃岐うどん、前から行ってみたいと思っていた徳島県の祖谷のかずら橋へ。奥深い渓谷なので人は少ないだろうと思っていたが、結構多かった。それでも15分ぐらい待って渡ったが、普段なら3時間待ちとのこと。3密を避けるために行ったのだが、同じように考えている人が多いとみえた。その後高知市を素通りして土佐山へ。狭い道を抜けると水の上に浮かぶような宿が現れた。部屋数は14とコテージが3でゆったりしている。温泉は露天風呂もあり、湯船から空を見ると星が全天を覆い尽くしているようで、これほどの星を見たのは初めてである。
翌日は清流仁淀川をさかのぼって「にこ淵」へ。道が狭く車のすれ違いのできないところが多くてひやひやしたが、早めに出発したおかげで何とか駐車場所もあり「にこ淵」を見ることができた。その時はブル―ではなくグリーンだったが光の加減できれいなブルーになるという。その後は松山市のうなぎ店「つしま」へ。ここは以前から松山に行った時はよく行くうなぎ屋で自分の好みである。どこにも寄らずしまなみ海道を渡って広島へ着いたのは夕方、四国全県を通過したことになる。時節柄とはいえ気分転換になるいい旅だった。